「会社」と「大量生産」が
人造人間の新しいトレンドを生んだ

 ロボットについて書かれた文献をたどれば、人の手によって人間を作り出すというアイデア自体は、『R.U.R.』が最初ではないことが分かってくる。例えば、ギリシャ神話にはキプロス島の王ピグマリオンが、彫像に魂を吹き込んで人間にするという話がある。また、ユダヤ教の伝承では、呪文で動く泥人形「ゴーレム」の物語があり、チャペックもそれを参考にしたといわれている。日本の昔話でも、「力太郎」など類似した物語があり、人に似たものを見て、それが人と同じように動くことを夢想することそのものは、普遍的なものと言っていいだろう。

 SFの分野でも、メアリー・シェリーが1818年に書いた『フランケンシュタイン』が同じ構造を持っている。フランケンシュタインの怪物は、死体を蘇らせたゾンビというより、博士が死骸の肉を材料として組み合わせて作り上げた人造人間であり、私たちが想像するロボットに近い。この他、機械的技術で人間の再現を目指そうとしたSFとしては、ヴィリエ・ド・リラダンが86年に書いた『未来のイヴ』がある。この作品では米国の発明王が、人間そっくりの美女を作り上げる過程が描写されているが、これはアンドロイドと呼ばれる人造人間を描いた小説の先駆けになった。

 しかし、こうした人造人間のテーマそのものは、あくまで文学的なモチーフにとどまっており、ビジネスに影響を与えたとまではいえない。これに対し、『R.U.R.』で作られた新しい造語「ロボット」は、科学技術の普及に、直接影響を与えていくことになる。

『R.U.R.』が特徴的なのは、「会社」が舞台であり、人造人間が「大量生産された製品」として描かれていることだ。フランケンシュタインや『未来のイヴ』のエディソンが、あくまで個人的な動機で人造人間を作成したのと異なり、チャペックは、テクノロジーが製品を生み、それが社会を変える、というビジネスの現場に着目した。『R.U.R.』は、人造人間の物語を、単なる魔術や科学者の暴走ではなく、産業として成立する「ビジネスモデル」を、その失敗も含めてシミュレーショナルに描いたところに特徴がある(なお、チャペックはこのシミュレーション力を生かし、後に、召し使いとしてのサンショウウオが普及した社会をジャーナリスティックに描く傑作『山椒魚戦争』を書く)。

世界を駆け巡った
「ロボット」のビジョン

「人間は人と同じような知能を持つものを大量生産でき、それを応用するビジネスがいずれ誕生し、そこで生まれた人工物たちは、いずれは人を凌駕し得る」という未来のビジョンは、20世紀に普及した機械技術の未来を予見させるものとして、洋の東西を問わずビジネスパーソンの強い興味を引き付けた。

 チェコ語というややマイナーな言語で出版されたにもかかわらず、『R.U.R.』は3年足らずで30カ国の言語に翻訳されている。例えば日本では、1923年に『人造人間』の題で翻訳されている(余談だが、中国語ではこのときの訳の影響からか、今でもロボットのことを「機器人」と「人」を付けて呼ぶ。たとえ人の形をしていない産業用ロボットであろうと、この名前で呼ぶ点に、原典の『R.U.R.』の影響が見て取れると私は思う)。

 これ以降、ロボットはフィクションの世界にとどまらず、現実の技術を示す媒介として強い効果を発揮することとなる。27年には米国のウェスティングハウス社が、家電製品を遠隔操作する人型ロボット「エレクトロ」とロボット犬「スパルコ」の展示を行い、翌28年には大阪毎日新聞社が、生物学者・西村真琴の手を借りて、アジア初のロボット「學天則(がくてんそく)」を発表した。

 そして27年、社会に大きな影響を与えたロボットSF作品『メトロポリス』が登場する。フリッツ・ラング監督は、未来社会の階層構造、そこで使われる高層ビルや空中電車などの科学技術、そして作中のロボットが巻き起こす混乱を、アールデコ風のアートスタイルと最先端のスペクタル映像技術を用いて描いた。この作品は手塚治虫にも大きな影響を与え、後の手塚作品のヒントになったともいわれている。

 これらの動きは全て『R.U.R.』の登場から10年以内に起こっている。1つのフィクションが、物語ばかりでなく、科学技術と社会に対して強い衝撃を与えたといえる。