でも自分の生き方を選んだのは自分だった
けれども、そこまで考えて、ふと思う。
でも、私は本当に、そっちの「恥ずかしくない人生」「自慢できる人生」のほうを、選べなかったのだろうか。
私が今この道を選んでしまっているのは「仕方なく」で、他に道がないからこっちに来てしまっただけなのだろうか、はたして。
よく言われることだけれど、人生は常に選択肢の連続だ。そして、この「川代紗生」という人生における、最終的な決定権は、常に私にあるはずだった。
もしもこの人生が一つの小説であるとするならば、この作品の主人公は私であり、そして同時に、作者も私であるはずだった。私というキャラクターをどのように動かし、どのように活かし、どんな困難に向かわせるのかも、どんな喜びを与えるのかも、どんな楽しみを、怒りを、悲しみを与えるのかも、全部私次第で、どの選択肢を選ぶのかも、私が決めていいことになっているはずだった。
本当に漫画家になりたいのなら、漫画を描き続けて賞に応募する選択肢もあった。
高校生になっても、自分の夢を語り続ける選択肢もあった。
大学に入って、大企業に入る選択肢もあった。OLになる道も、銀行員になる道も、デザイナーになる道も、編集者になる道も、レストランで働く選択肢もあった。
結婚して、そのまま寿退社して、専業主婦として暮らす道もあった。
そうだ。
私は、どのタイミングでだって、外資系企業に入ることも、クリスチャン・ルブタンを履くことも、ハーブをベランダで育てることも、表参道や代官山に日常的に行く生活を維持することだって、やろうと思えば、なんだってできたはずだ。
だって、私の親は、私がいつでも、どの道を選んでも良いように、たくさんの選択肢を用意しておいてくれたからだ。
自由であるということは、それだけ選択肢があるということで、私は自分の努力次第で、どこへでも行ける環境が備えられていた。
けれども、それでも私は今、ここにいる。
私は、「どんな道でも選べる」という状況の中で、それでもやっぱり、ここを選んだ。書いて生きていくことを選んだ。
「こんな人生がいいな」と思い描いていた、おしゃれでかっこいい、「理想の大人」像に近づく道だって、いつでも選ぶことはできたはずだ。
けれども私は、ここを選んだ。ここにいることを望み、ここで生きて行く覚悟を決めた。
ならば、どうしてこんな風に悩んでいるんだろう? 不安になっているんだろう?
どんな人生なら、私は満足できるんだろう? どんな人生を求めて、今ここで働き、ここで文章を書いているのだろうか。