「ビジネスに役立つ●●学」と書かれたら、●●に何を入れたくなりますか。経済学、経営学、心理学、社会学、倫理学、金融工学、哲学……色々あると思いますが「文学」と即答する人は珍しいでしょう。しかし、そんなことはないのです。第1回から第166回まで歴代の芥川賞受賞全作品を読み尽くし『タイム・スリップ芥川賞』という本を書いた菊池良さんが、「ビジネスと純文学」の関連を説きます。「ビジネス領域と文学は遠いだろう」と考えている方こそ、ぜひ。(構成:編集部/今野良介)

「芥川賞とか読まんし」

第166回の芥川賞が砂川文次さんの『ブラックボックス』に決まりました。非正規雇用の自転車便メッセンジャーである男が、コロナ禍の不安定な社会のなか事故的な暴発する小説です。

砂川さんは元自衛官の小説家で、2016年に「市街戦」で文學界新人賞を受賞してデビュー。今までに二度芥川賞の候補になり、三度目で受賞しました。『ブラックボックス』は講談社から単行本が出版されています

芥川賞はいわゆる「純文学」の文学賞です。もしかしたら、よほどの本好きでないと読まないイメージがあるかもしれません。純文学には敷居の高い印象がありますし、ビジネス書とちがって、読むことによる明確なメリットもわかりづらいです。

しかし、『タイム・スリップ芥川賞』という本を書く中でわかったのですが、私たちは今こそ純文学に手をのばす必要があります。

特に、「ビジネス領域と文学は遠いだろう」と考えている人こそ、読むといいことがあります。

文学は「抽象的な思考」を鍛える

昨今はビジネス領域においても「アート思考」、あるいは「抽象思考」への注目が高まっています。

複雑で先行き不透明な時代には、論理的な思考や成功事例にしたがったこれまでの方法論が通用しません。「答え」をあたえるものではなく、アートのような「問い」をあたえるものを享受し、論理的な思考を超えた考え方を身につける必要があると言われています。「論理的な思考」に対比される「抽象的な思考」のプライオリティが高まっているのです。

アートと同じように、受け取るひとに「答え」ではなく「問い」を与えるジャンルが文芸にもあります。それが純文学です。

なぜ映画などではなく純文学なのか。それも小説のなかで、なぜとりわけ純文学なのか。

ストーリーを伴うコンテンツは、あるていどセオリーに沿ってつくられます。たとえば冒頭に事件が起こって主人公が困難に陥り、それを乗り越えて事件が解決されるといったもののことです。そういうセオリーは「論理的な思考」でつくられます。

しかし、純文学は予定調和を打ち崩します。事件が起こらないこともありますし、事件が起こっても解決されないこともあります。1ページ先になにが書かれているか予測できないのが純文学なのです。

そのうえ、読者にとって「楽しくない」可能性すらあります。あらゆるコンテンツは読者を楽しませることを目的に作られているはずですが、純文学はそこからも外れています。

純文学とは文字でつむがれたアート作品であり、読者に「問い」を突きつける抽象的な文芸なのです。

純文学を読むことは抽象的な思考を鍛えること、そしてもちろん想像力や創造性を鍛えることにつながります。

文学は「言語化」や「メタ認知」を鍛える

ビジネスでは「言語化」や「メタ認知」にも注目が集まっています。

自分が思ったことをうまくことばにできたり、自分の感情をうまくつかむことできたりすることが大切だとされています。

ここでもまた、純文学がその助けになります。

当然ながら、文学は「言語化の塊」です。登場人物の感情や行動を、さまざまなレトリックを使って読者に訴えかけます。

一人称ならば主観的な描写がなされ、三人称ならば客観的な描写がなされる。読者は登場人物たちの感情や行動を文章によって追うことで、自らの感情や行動をどう表現したらいいかを学ぶことができます。こどもが言語を覚えるように、文学を読むことで表現を覚えるのです。

私たちは言語化することで、いろんな感情を共有することができます。分断を乗り越える鍵が、文学には備わっています。

で、なにから読みゃいいの?

しかしながら、初心者には純文学の敷居は高く感じられます。書店に行っても、どの本を手にとっていいのかわからないかと思います。

そこでわたしは、純文学の入り口として「芥川賞の受賞作品」をおすすめします。芥川賞は純文学の新人賞で、受賞の発表はニュースにもなりますから、読んだことはなくても、だれがとったかは耳にしているでしょう。

なぜ芥川賞が純文学の入り口としておすすめか。

芥川賞は長年純文学を書いてきたプレイヤーが選考します。芥川賞を受賞するということは、それだけ研ぎ澄まされた作品なのです。

また、直近半年間のなかから優れた作品が選ばれますので、時事性の高い作品が受賞します。話題性が強く、ほかのひとの感想や解釈をネットでも読むことができます。じぶんの感想と比較しながら読むことで、解釈の多様性に触れることもできます。

最新の受賞作『ブラックボックス』にも「非正規雇用」「ギグワーカー」「コロナ禍」といった現代社会のホットなトピックが詰まっています。

そして芥川賞は、遡って読むと、受賞当時の時代の空気感をつかむことができます。

つまり「日本人の歴史を学ぶ」要素もあるのです。

アート思考や言語化力を磨きたいなら「純文学」を読めばいい中上健次が、村上龍に何度も告げた言葉。

先行き不透明な現代において、私たちは答えのない創造的な仕事をしなければいけません。

そのヒントが、芥川賞の受賞作にはあります。