「考えすぎ」=「短所」と言われてしまう時代に生まれて

「紗生は考えすぎだよ」と、昔からよく言われた。私が些細なことで悩みすぎるからだった。悪口を言われたとか、先生に怒られたとか、そういう、どこにでもあるような、誰にでも起こりうるようなことで、私はいちいち落ち込んでいたからだ。

小学一年生の頃の悩みは、学校の誰からも「川代さん」としか呼ばれないことだった。ゆりちゃんだのみほちゃんだの、はるだのさっちゃんだの、私以外の友達みんなは名前で呼ばれていたし、ニックネームを持っていた。でも、真面目で成績が良くて学級委員長に推薦されるような私は、「川代さん」という名前から抜け出すことができなかった。

「川代さん」と呼ばれる以上、「川代さん」らしく真面目に、成績の良い模範生徒を演じなければならないような気がした。でも本当は「川代さん」なんて呼ばれたくなかった。「川代さん」という呼び名は、楽しそうに外でドロケイをする友達たちと自分のあいだに立ちふさがる大きくて頑丈な壁のように見えた。そちら側に行きたいのに、「川代さん」のせいで私は一歩も入ることを許されていないような気がした。

名前なんて、ニックネームなんて、さして大した問題ではないのかもしれない。あの頃の友人たちもとくに深い意味もなく川代さんと呼んでいただけかもしれない。自分でもどうしてこんなことで悩むのかわからなかった。けれど、仕方がないのだった。他の「さき」は「さきちゃん」と呼ばれているのに、川代紗生は「川代さん」としか呼ばれないことが、寂しかったし、もう一人のさきちゃんよりも、自分が劣っているような気がしてしまっていたのだ。めんどくさいけれど、私はそういう細かいことをいちいち気にしてしまう性格なのだ。生まれつき。

よく言えば、感受性が強い。悪く言えば、神経質。気弱。小心者。でもそのかわり、いつもどんな小さなことにでも、真剣に向き合って生きて来たつもりだった。私はそれが普通だと思っていた。もっと言えば、自分がとくに考えすぎだとも、思っていなかった。あまりにいろんな人に言われるので、ようやく最近、自分は世間一般的に見て、平均よりもかなり考えすぎる性格らしいということがわかってきたのだ。そして考えすぎというのは、ふつう、長所よりも短所に分類されるのだった。

「感受性が強い人は、ときに、必要のないことにまでも、傷ついてしまいます。それは時間の無駄ですし、損です」

そう書いてある自己啓発本は、一冊ではなかった。

くらり、と本屋で立ちくらみが起こった。ああ、あの先輩も、こういうことが言いたかったのか、と、自己啓発本のページをめくって、気がついたのだ。

「悩んでても、何も前に進まないよ。本当に優秀な人っていうのは、いつも充実しているから、悩む暇もないんだよ。いつまでもぐじぐじしてないで、とにかく、行動だよ、行動。成長したかったらね」

先輩に言われたことを、思い出す。そうか、私が今こうして悩んでいることや心配していることや、不安になっていることは、世間一般的に見れば無駄な作業なのかと、はたと思いついた。考えすぎは時間の浪費なのだ。有効じゃないし、何の役にもたたないことなのだ。そんなことに時間を使うやつは、貴重な人生を無駄にしてしまっている人なのだ。みんなから見れば。私が今まで、考えて考えて考えてきたことを、多くの人は、「いらないもの」とみなすのだ。

その事実を知ったとき、もちろん私は悲しかった。電撃が走ったようだった。私は本の「はじめに」のページを開いたまま、立ちつくしていた。

しかしそれでも、なんだか胸の奥にストンと何かが落ちる感触があった。ああ、そうか、そういうことか。これまでの人生で幾度となく経験してきた違和感に、説明がついたからだ。