唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント9万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊された。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

死体を探して墓地を歩き回る…解剖学者ヴェサリウスの「革命的な偉業」とは?Photo: Adobe Stock

人体解剖は禁止されていた

 古代ローマの時代から長きにわたって禁止されていた人体解剖は、ルネサンスの時代に一定の条件下で許されるようになった。

 しかし、当時の人体解剖は、「医師の君主」とも呼ばれる古代ローマの医師、グラディウス・ガレノスの理論の正しさを追認する形で行われていた。

 かつて猿や豚などの動物を解剖し、その知見をまとめたガレノスの著作は、計500~1000万語に上るとも言われる。

 その学説はキリスト教の教義と結びつき、侵すことのできない理論となっていたのだ。

 動物を解剖した経験に基づくガレノスの理論には、さまざまな誤りが含まれていたが、その大きすぎる権威に誰も異を唱えることはできなかった。たとえガレノスの理論に合致しないものが観察されても、正しいのはガレノスのほうであり、観察者か人体のほうが「間違っている」とされた。

 ガレノスが時に「医学の進歩を1000年以上遅らせた」とまで評されるのは、それが理由である。

 こうした時代において解剖学を大きく進歩させたのは、十六世紀の医師アンドレアス・ヴェサリウスである。

 1514年、ローマ皇帝の宮廷侍医の家系に生まれたヴェサリウスは、幼い頃から解剖学に強い関心を抱いていた。だが、ガレノスのテキストをなぞる大学の講義は、彼にとって期待はずれであった。

 人体に関わる正確な解剖学的知識を得たいと渇望したヴェサリウスは、取り憑かれたように墓地や絞首刑場などを歩き回った。できる限り多くの死体を集め、自らの手で解剖するためである。

解剖学の大著『ファブリカ』

 1543年、ヴェサリウスはついに、七〇〇頁以上にわたる解剖学書を作り上げた。『ファブリカ』と名付けられたその大著には、多くの精緻な解剖図が掲載され、その範囲は全身をすみずみまで網羅していた。おびただしい数の人体を自ら解剖したものにしか作れない、見事な作品であった。

 ヴェサリウスは、権威ある古典について深く考えることよりも、人の体そのものの観察を重視した。現象をありのままに捉えるという、まさに科学の基本手順を「人体」に適用したのである。

『ファブリカ』は、印刷技術の発展も手伝って瞬く間にヨーロッパ中に広まり、近代医学の出発点となった。ヴェサリウスの偉業は、医学がサイエンスの一角を担う、その第一歩なのである。

(※本原稿は『すばらしい人体』を抜粋・再編集したものです)