「うつ」は「生き生きと」生きる契機

生きるとはこの世でもっとも稀なことである。大抵の人間は存在しているにすぎない。(西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集』第3巻収載「箴言」、青土社より)

 このオスカー・ワイルドの箴言は、現代の私たちにも鋭く突き刺さってくるものです。「生きているもの」とは、例外なく即興性を持っているものです。周到に計画され準備されたものは、失敗による落胆も起こらないかわりに、予想外の収穫を得るという喜びもありません。人が「生き生きと」生きるためには、どうしてもこの即興性が欠かせない要素だと言えるでしょう。

 しかし、計画を立ててそれを実行することが良いことであると幼い頃から叩き込まれ、社会に出てからもそれを求められ続ける現代人にとって、即興性を失わずに生きることはなかなか容易ではありません。

――久しぶりに通勤ラッシュの電車に乗ってみたら、みんな目が死んでいて、とても異様な空気を感じました。以前はそんなことに気づきもしなかったから、きっと自分も昔はあんな目をしていたんでしょうね。

 「うつ」から回復して社会復帰しはじめた方たちから、よくこんな感想を耳にすることがあります。

 前連載第24回で、「うつ」からの回復は「生まれ直す」ような変化であると述べましたが、まさに「うつ」とは、人を「死んだような」状態から「生きた」状態に引き戻してくれる重要な契機であると見ることもできるわけです。

先が見えない不安と先が見えた落胆

 人間の「頭」はコンピューターのごとく情報処理を行ないますが、過去の情報を元にした未来の予測を行なったり、計画を立てたりするのが得意技です。時制で言えば、もっぱら「過去」と「未来」に関わっており、「現在」をうまく扱えないという限界があります。

 つまり、「先が見えない」ことを不安と感じるのは、「未来」を扱う「頭」なのですが、しかし逆に「先が見えた」という言葉もあるように、先が見えることで「心」(=「身体」)は即興性を奪われ、落胆してしまいます。心電図の波形を見てもわかるように、生物にとっては変化こそが「生きている」ことなのであって、安定とは究極は「死」の世界なのです。

 人間という存在がややこしいのは、「頭」は省力化を目指し安定を志向するのに、「心」(=「身体」)の側は変化を求めるという、相反する性質が同居しているためなのです。

 フロイトはエロスとタナトスという言葉で、この相反する「生の欲動」と「死の欲動」を表現しましたが、現代の私たちは「頭」の要請にばかり目を奪われがちで、知らず知らずのうちに「死の欲動(タナトス)」を肥大化させてしまっている状態にあります。

 そのような状況の下で、私たちはどうにかして「心」(=「身体」)が求める即興的な「生」の要素を失わないように日々を送る必要があると言えるでしょう。

 次回は、現代の「うつ」の一種である「適応障害」というものについて考えてみたいと思います。