当時、大村さんが所属していたNPO法人ジャパンハートは、ミャンマーを中心に医師や看護師を現地に派遣し、医療支援を行っていた。その活動拠点を広げるために訪れたネパールの大学病院で、大村さんはジャパンハートの支援活動を受け入れてもらえるように提案することになっていた。何日もかけてプレゼンテーション用の資料を作り、意気込んで病院の経営者に連絡をすると、返事は「3日後に来てくれ」というものだった。

「てっきり『すぐに来てくれ』と言われると思っていたので、なんだけ拍子抜けしてしまって。特にやることもなかったので、空いた時間をぼーっと過ごしていたら、急に『耳鼻科医になろう』と思い付いたんです」

誰かに“求められていること”から
自分の“やりたいこと”が見つかる

 その瞬間のことを大村さんは、「突然、降って来た」と振り返る。さらに、「3日後に」と待たされたプレゼンの場で、ネパールでの国際協力活動の現実を知ったことも、大村さんの決断を後押しした。病院長にジャパンハートの活動を伝えると、「それでお金はいくら払えるの?」と聞かれたのである。ネパールでは、手術室の使用料やスタッフの人件費を、支援団体が支払うのが常識のようになっていたため、それができなければ「支援は必要ない」と言われてしまったのだ。

「その常識を覆すだけの能力が、今の自分にはないんだなと。だったら、この病院から『来てください』と言われるくらいの、替えが効かない技術を身に付けてやろうと思いました」

 後日談だが、その後、大村さんのもとには“ネパールの東大”と言われるトリブバン病院の医師から、「鼻の手術を勉強させてほしい」と依頼が来た。当時、「お金を払ってくれないのなら必要ない」と断られた技術支援だったが、今では現地の医師から「その技術を教えてほしい」と請われるまでになったのである。

 もう一つ、「耳鼻科医になろう」と決めた大村さんの背中を押した出来事があった。それは、ネパールの田舎に住む若い医師との出会いだった。

「『将来何をやりたいの?』と聞いたら、その若い先生は『ラパロ(腹腔鏡)をやりたい』と言ったんです。でも、ネパールにラパロを学べる病院は一つしかない。しかも教えを待っている医師が80人以上いて、一体いつになったら学べるのかも分からない状況。それではいつか諦めてしまいますよね。僕が現地の医師の役に立てるとしたら、『技術を教えることだ』と思ったのです」

 開発途上国では、手術の技術を学びたくても学べない現状がある。であれば、自分が耳鼻科の分野で高い技術力を身に付けて、その技術を教えればいい。そうすれば「学びたい」という思いのある現地の医師たちに、希望を持ってもらえるのではないか。進路に悩んだ日々の先に、大村さんは人生をかけて取り組みたいと思える新しい目標を見つけたのである。

「やりたいこと」が見つからない人がやるべき“たった一つのこと”ネパールの診療所の現地スタッフたちと。(左から2番目が大村さん)