スターバックスの成功は、アメリカの美味しいコーヒー「スペシャルティ・コーヒー」を広めたことにあった(第一の成功。前回参照)。しかし、現在のスターバックスを見てみると、本格的なコーヒーはむしろ少数派だ。スターバックスのコーヒーの本格とポップさはいかにして両立したのか? 前回に引き続き、多くの大学の教壇に立つ『探偵!ナイトスクープ』初代探偵・越前屋俵太氏(京都大学経営管理大学院研究員)と、京都大学経営管理大学院で「文化の経営学」を専門とする山内裕教授が、スターバックスの歴史的成功を調査する。スターバックスの成功の本質は、コーヒーではなく、イタリア語を売ったことにあった!?
邪道で正道をゆく!? スターバックスの経営判断
山内裕(以下、山内) 前回は、スターバックスが現在とは似て非なるものだったということをお話しました。それでは、どのようにして現在のスターバックスは生まれたのでしょうか? というのが今回のお話です。
スターバックスが躍進するのは1980年代後半、ハワード・シュルツという人物が革新を起こします。
シュルツさんは、ニューヨークの貧しい地区で育ちますが、努力して大学に行き、輸入物を扱う商社で仕事を得ます。その会社である日、コーヒー器具の納入先に目をとめました。それがスターバックスでした。シュルツさんはスターバックスが気になり、シアトルに赴きます。そして現在とは比較にならないほど小さな会社だったスターバックスのコーヒーに感動し、経営者に雇ってくれるようにかけあったのです。
越前屋俵太(以下、越前屋) 「一緒にやりたい」というわけですね。
山内 ええ。1982年にスターバックスに参加します。エリート街道が約束された輸入物商社を辞めて、未来があるかも分からないスターバックスに入社するわけです。
しかしシュルツさんは決して思いつきで入社したわけではありませんでした。彼は早くからスターバックスがもっと成長するという可能性を見出していたのです。
そうして入社直後にイタリアへ出張します。そこでエスプレッソバーと出会いました。イタリアのエスプレッソバーは、街の人が集まる、コミュニティベースのカフェです。シュルツさんはこのエスプレッソバーをおおいに気に入り、「うちでもやろう!」とスターバックスに提案するわけです。しかし、彼は反対に遭いました。経営者は「自分たちはレストランにはならない」と言って突っぱねたのです。
越前屋 自分たちはいいコーヒー豆を売ってりゃいいんだというわけですね。
山内 シュルツさんは経営者を粘り強く説得し、一部の店舗でエスプレッソコーヒーを出すようになります。しかしもっと大々的にやりたいという思いから1985年、「イル・ジョルナーレ」という店を自分で立ち上げることにしました。
越前屋 スターバックスに入ったばかりなのに、独立したってことですか?
山内 そうなんです。おまけに独立するときにスターバックスの創業者から投資を受けたようです。
それからシュルツさんは順調に店舗を増やしていいきます。そんなあるとき、思いがけない機会が舞い込みます。スターバックスの経営者が「スターバックスを継がないか?」とシュルツさんに持ちかけたのです。
スターバックスの経営者たちは、すでに引退していたピートさん(スペシャルティコーヒーの販売の先駆者。前回参照)の店を買い取っていました。しかしその経営に手間取り、スターバックスを手放すことになったのです。こうしてシュルツさんは1987年、スターバックスを買い取ることを決意します。
越前屋 シュルツさん、これはラッキーな買い物ですよね。だって本当はスターバックスでやりたかったけれど、言うことを聞いてくれないから自分で会社を起こしたわけですから。
山内 シュルツさんが経営者となったスターバックスは、ここから劇的に変化していきます。シュルツさんは一気に店舗を拡大していくのですが、面白いことやります。まず、「ノンファットミルク」のラテです。その前に、そもそもラテは、当初のスペシャルティコーヒーの価値観を共有する客にとっては、おじいちゃんやおばあちゃんがパンをつけながら飲むようなものでした。
越前屋 つまりコーヒー通からすると、ラテなんて甘ったるいものはそもそもコーヒーじゃないと。
山内 ええ。なのでまあ、言ってみればミルクがふんだんに入っていて、コーヒーの味自体はあまり重要じゃなくなる…と。
越前屋 (笑)。邪道だということですね。
山内 当時はダークローストのコーヒーを濃く淹れて飲むことが通の飲み方でした。しかし社会では、確実にラテなどの新しい飲み方に人気が集まってきていました。ある時、若い女性客が脂肪分のないノンファットミルクのラテが欲しいと言ってきたのです。ノンファットのラテはまずいです。
シュルツさんは経営者たちと議論します。そして一度は、ノンファットミルクのラテは美味しくなく、コーヒーの正しい味わい方ではないと判断し、導入には反対しました。しかし、シュルツさんはもう一度考え直します。そして、ノンファットラテを導入してみるという判断をしたのです。ノンファットラテはまたたく間にヒット商品になりました。
越前屋 それはどういうことなんです? 時代の女性が求めていることを柔軟に取り入れたことがシュルツさんの凄みなんですか?
山内 結論に行く前にもう一つ、シュルツさんがやった面白いことを紹介します。ロサンゼルスにあるスターバックスの店員が、夏にコーヒーが売れないので、冷たい商品を出したいと言ってきました。そこで開発されたのが、冷たく甘くした「フラペチーノ」でした。出してみたところ、これも大ヒットしました。
越前屋 なんとなくわかってきました。そもそもコーヒーにこだわりを持ってつくっていた人にはつくれないものを次々と出していったのがシュルツさんの凄みなんですね?
山内 そういうことです。シュルツさんが下した意思決定の本質は、スターバックスの本来の価値であった、「通のためのこだわりのコーヒーの提供」の意味を問い直したことでした。それが、スペシャルティコーヒー全盛の時代の中で、オリジナリティにつながったというわけです。
越前屋 どうやってそんなことができたんでしょうね? 家で奥さんやらに相談しているんでしょうかね?(笑)とはいえ、いろいろ悩んで最終的にやってみたらヒットするってのはすごいですね。
山内 このような展開をへて、スターバックスは一気に店舗を増やしていきます。当時似たようなコーヒーを出す店は他にもあったのですが、他の追随を許さない店舗展開によって、圧倒的首位を確立し、1992年には株式公開します。ちなみに1996年には日本に参入し大成功を納めます。
越前屋 なるほど、僕らは「なんか小洒落た店ができたなあ」と思っていたわけですが、もうアメリカで大ヒットした後だったんですね。
スターバックスはコーヒーではなく、イタリア語を売った
山内 スターバックスの商品は、一体なぜうけたのでしょう? その背景には、社会が大きく変化する1980年代において、人々の「自己表現」欲をうまく捉えたからです。
越前屋 なるほど、つまり女性にうけるものを売ったからヒットしたわけではなくて、その時代の社会的な背景は何かを紐解いていったわけですね? で、この時代何が起きたんですか?
山内 1980年代というはすごい時代です。1979年のイギリスのサッチャー政権、1981年のアメリカのレーガン政権に始まる「新自由主義」が発展した時代です。
越前屋 新自由主義というのは?
山内 言ってみれば個人ががんばって働いたら、お金持ちになって自由を謳歌していいという考え方です。今となっては批判の対象ですが、当時は画期的な考え方でした。それまでの重苦しい政策や産業ではなく、金融が中心になりました。福祉が厚く労働組合が強かった社会は硬直化していると捉えられ、社会が解体され人々が自由に軽く動き回ることが最先端だったのです。
新自由主義者の政治家は古い体制の外から来たことも印象的でした。アメリカのレーガンは俳優で、イギリスのサッチャーは中産階級の女性がいきなり首相になるというセンセーショナルな出来事を経て就任しています。このひとたちが製造よりも金融を重視する政策を実行していく。すると金融だけがどんどん発展して、「ウォール街」が経済の中心になっていきます。
そして1987年には「ブラックマンデー」という史上最大規模の金融危機が起き、新自由主義に陰りが見えはじめます。同年に公開されたオリバー・ストーン監督の映画『ウォール・ストリート』は、叩き上げの若者がウォール街で成功するストーリーでした。「欲は善だ」と言い、最後は刑務所送りになる主人公のゴードン・ゲッコーはまさに新自由主義を象徴しています。
越前屋 一部の特権階級による既得権益を崩壊させ、新しい力を手に入れることが自由だと考えられていた時代ということですね。そのときスターバックスはどうなっていたんでしょうか?
山内 シュルツさんがスターバックスを買い取った1987年当時、新自由主義の影響はコーヒーの世界でも同様でした。つまり、ブルジョア男性が好むような、味の違いがわかるコーヒー通は批判の対象になってきたのです。
越前屋 ピートさんがつくってきた美味しいコーヒーがよしとされているけれど、それがなんだってことになったわけですね。
山内 そもそも1960年代の学生運動の矛先はブルジョアの支配階級に向けられていました。そのときのブルジョアのイメージは重苦しく本格的なもの。いわゆるジェントルマンや食通です。ブルジョワへのアンチテーゼであったはずのスペシャルティコーヒーは、そうしたイメージと重なる危険性と隣り合わせだったのです。それが1980年代に批判の対象になってしまったわけです。
ここでさらに面白い展開が起きます。なんとコーヒーだけでなく、社会におけるアートやデザインも、1980年代には従来の重厚なものから、垢抜けて軽いものに置き変わっていったのです。
越前屋 たとえば、所ジョージさんとか?
山内 (笑)糸井重里さんが好例ですね。彼の表現にあるような、軽さこそがかっこよく、重苦しいものが嫌われた時代です。
アートの世界も、盗用(アプロプリエーション)が、カッコいいアート表現となりました。京都クリエイティブアッサンブラージュにも構想段階で関わっていただいた、美術家の森村泰昌さんがゴッホに変装して、セルフポートレート写真を撮っていたのが1985年でした。
越前屋 森村さんというと、自分でモナリザになったりしてセルフポートレートを撮られたりする方ですよね。
山内 そうです。過去の作品を盗用して作られた作品が、まさに1985年当時の空気感を捉えていたのです。
で、スターバックスに話を戻すと、コーヒーも背景が重苦しいよりも軽いものがかっこいいということになったのです。だから、シュルツさんは1987年に気づいたんです。お客さんが求めてるのは、コーヒーの本当に深い味わいなどではなく、イタリアの雰囲気だと。例えば、イタリア語です。
越前屋 (笑)イタリア語ってことになるんですか!?
山内 エスプレッソバーも、ラテ(Caffè latte)もイタリア発祥です。スターバックスのカップサイズもイタリア語ですよ。ショート(short)とトール(tall)は英語ですが、その上のグランデ(grande)、ベンティ(venti)はイタリア語です。ベンティは「20」を表しています。
越前屋 なるほどね。大衆はコーヒーの味ではなく、イタリアぽさが嬉しいんだろうと。
スターバックスは、コーヒーを通して世界を見ていた
山内 でもバカにしているわけでは決してないです。これは、シュルツさんのみができたスペシャルティコーヒーの意味転換です。そうした意思決定をできたシュルツさんは天才です。その当時のこだわりの強いコーヒー通のオーナーたちには絶対できないわけです。それこそが、スターバックスの第二の成功だったわけです。
そしてシュルツ氏は同時に、最高級のコーヒー豆を仕入れることこだわり続けました。1994年のブラジルの霜被害でコーヒー豆が高騰したときも、品質には妥協しませんでした。そして、スターバックスはコーヒーの美味しさをアピールし続けましたし、今もそうだと思います。
越前屋 冷たいのとかラテとかやっても、豆を適当にしなかったと。譲らなかったわけですね。
山内 伝統を守りながら、ある意味、矛盾したことをしているわけです。1980年代はフラペチーノのような、軽いものだけだったわけではないのです。人々の本物に対する憧れはなくならない。この時代の本質は、軽さを求めながら、本物を求めたという矛盾した時代だということを、シュルツさんは見抜いていたんでしょう。映画『ウォール・ストリート』では、最終的には実直な労働者が勝ち、浅はかな金融の勝者であるゴードン・ゲッコーは起訴され服役するわけです。
スターバックスの第二の成功も、第一の成功と同じく、歴史を作るイノベーションだったということです。潜在的なニーズを満たすのではなく、新しい時代を表現し、新しい世界へ人々を連れ出すこと。そうして人々に新しい自己表現を可能にすることで、歴史をつくるイノベーションは生まれるのです。
越前屋 僕はテレビの世界しか知らないけれど、まさに創造というのはそうですね。次の新しい世界って絶対あるんですよ。みんな怖くてやらないけれど。だから潰れていくわけです。勇気ある一歩を踏み出すことが重要です。でも、同じ場所にいると自ずと古くなる。その古さを知り、常に変化していかないといけない。
山内 シュルツさんがまさにそうですが、創造というのは、「よく見る」ことです。
越前屋 たしかにそうですが、見るといっても社会となると、政治や文化などいろいろなものがあります。ひとつの定点観測ではなく、総合的な見方はどうすれば可能になるのでしょう?
山内 定点でも良いと思います。いま、目の前にある他愛もないものでも、この世界のすべてを映している。その成り立ちを疑い、理由を理解し、意味を見出していく。それが本当の意味で「見る」ということ。シュルツさんにはその目があったのだと思います。