頭のいい人は、「遅く考える」。遅く考える人は、自身の思考そのものに注意を払い、丁寧に思考を進めている。間違える可能性を減らし、より良いアイデアを生む想像力や、創造性を発揮できるのだ。この、意識的にゆっくり考えることを「遅考」(ちこう)と呼び、それを使いこなす方法を紹介する『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための「10のレッスン」』が発刊された。
この本では、52の問題と対話形式で思考力を鍛えなおし、じっくり深く考えるための「考える型」が身につけられる。「深くじっくり考えられない」「いつまでも、同じことばかり考え続けてしまう」という悩みを解決するために生まれた本書。この連載では、その内容の一部や、著者の植原亮氏の書き下ろし記事を紹介します。

遅考術Photo: Adobe Stock

なぜ、体験談は人を動かすのか?

 健康食品などで、芸能人が体験談を語るCMを見たことがあるだろう。わたしたちは、芸能人や有名人とメディアを通じて繰り返し接している。それゆえに安心感を抱き、信頼しやすいのでつい買ってしまうのである。

 また、人間は統計を瞬時に理解するのが苦手で、その裏返しとして「……という経験をしてね」といった個人的なエピソードに影響されやすく、わりと説得力を感じてしまう。これは以前解説したオートモードの思考の弱点と言える。だからこそ、注意しておきたい。

 今回は例題を使って、そうした主張の真偽を冷静に見抜くポイントを考えていきたい。早速だが、以下の主張の問題点をいくつか指摘してほしい(※)。

 ある芸能人が、サメの軟骨を食べていたら、がんが消えたという体験を語っていた。
 サメの軟骨には、がんを治癒する効果があるんだね。……え、サメの軟骨を食べていてもがんで亡くなった人の話を聞いたことがあるって?
 いやいや、単に食べていれば十分というわけじゃあない。その効果を心から信じることも必要なんだ。もしサメの軟骨を食べていても、なかなかがんがよくならないなら、それはまだ信じる心が足りていないからにすぎない。
 もっと食べ続けなさい、そしてサメの力をただ受け入れよ……。

まず考えるべきポイント

 まず考えるべきは、「別の原因があるかもしれない」ということだ。サメの軟骨を食べていたらがんが消えたといっても、それが原因とは限らない。

 もしサメの軟骨の効果をきちんと検証したい場合は、きちんと科学的な手順を踏んだ対照実験をする必要がある。たとえば、ランダムサンプリングをしながら十分な規模のサンプルを確保して、実験群と対照群に分けて、結果を比較する……。より正確には、プラシーボ効果が生じる可能性も考慮し、二重盲検法を行う、といった措置も必要になってくる。

 そう考えると、そもそもこの主張は実験の前にサンプルが一人だけで少なすぎる。落ち着いて考えれば、そこに問題があるのがわかってくる。

科学を回避する「トリック」に気づく

 より重要なのは、問題文の後半についてだ。「サメの軟骨の効果を心から信じることも必要」というところは、前半とは少し違う要素が入っている。

 ここでは、疑似科学的な主張がなされている。こういった話が持ち出された場合は、「反証可能性」という言葉を思い出してほしい。

 これは、「きちんと反証される可能性が確保されていることが、科学的な仮説であることの重要な条件だ」という話である。反証とは、仮説の間違いが判明することだ。

 これに対し、科学に見せかけているだけの疑似科学は反証を拒む。今回は、「サメの軟骨はがんの治癒効果がある」という仮説が反証されないようになっている仕掛けがある。

 本当は、軟骨を食べ続けていてもがんがよくならないなら、この仮説は間違っていたことになる。でも、その事実を突きつけても「いやそれは信じる心が足りてないから」と言い返される。いつまでもそうやって反証をかわし続けられるのだ。

 この手の留保をつけて言い逃れの余地を残しておくことで、常に反証が回避できるようになっている。疑似科学的な主張によく見られる特徴だ。

「個人的な体験談」とうまく付き合おう

 まとめると、今回の問題の主張は、適切な対照実験にもとづいていないため、サメの軟骨の効果ははっきりしない。したがって、がんの治癒には別の原因が存在する可能性が否定できない。

 また、引き合いに出されているのは一人の芸能人の体験談だけであり、サンプルの規模がきわめて小さく、とても主張の根拠にはならない。

 さらに、後半ではサメの軟骨の効果について反証を受けつけない疑似科学的な主張がなされているのも問題である、となる。

「個人的な体験談」は、映画やゲームや漫画といった趣味をおススメするときにも、よく使ったり使われたりするだろう。こういった話をするのは楽しく、興味が湧きやすいし、これ自体が別に悪いことではない。ただ、健康や医療といったテーマで接する際には十分注意したい。その際はまず「反証可能性」の有無をチェックしてみてほしい。

(※)Foresman, G. A., Fosl, P. S., and Watson, J. C.(2016). The Critical Thinking Toolkit . Wiley-Blackwell, p.295 での例を部分的に使用した。

(本稿は、植原亮著『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための10のレッスン』を再構成したものです)

植原 亮(うえはら・りょう)

1978年埼玉県に生まれる。2008年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術、2011年)。現在、関西大学総合情報学部教授。専門は科学哲学だが、理論的な考察だけでなく、それを応用した教育実践や著述活動にも積極的に取り組んでいる。
主な著書に『思考力改善ドリル』(勁草書房、2020年)、『自然主義入門』(勁草書房、2017年)、『実在論と知識の自然化』(勁草書房、2013年)、『生命倫理と医療倫理 第3版』(共著、金芳堂、2014年)、『道徳の神経哲学』(共著、新曜社、2012年)、『脳神経科学リテラシー』(共著、勁草書房、2010年)、『脳神経倫理学の展望』(共著、勁草書房、2008年)など。訳書にT・クレイン『心の哲学』(勁草書房、2010年)、P・S・チャーチランド『脳がつくる倫理』(共訳、化学同人、2013年)などがある。