ラテン語こそ世界最高の教養である――。超難関試験を突破し、東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」「生きる勇気が湧いてきた」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「言葉とは船である」超難解なラテン語に学ぶコミュニケーションの作法Photo: Adobe Stock

なぜラテン語は衰退したのか?

 ラテン語は、さまざまな象徴性を持った言語です。

 ローマ帝国の拡大に伴って帝国の公用語になっただけでなく、帝国の滅亡以降も変わらずヨーロッパ社会の学術や外交全般に用いられているからです。そして、ローマ帝国の行政と法律体系をそのまま受け継いだカトリック教会の公式言語でもありますね。

 こうして西欧中心の言語としていつまでも残り続けるかに思えたラテン語に陰りが見え始めたのは、マルティン・ルターの登場に先駆けて、ローマカトリック教会を強く批判する人々が現れてからのことです。このころにはすでに、「ラテン語で語られることは何事も高尚に見える」という概念は時代遅れのものになっていました。

 これに立ち向かったのが15世紀イタリアの人文科学者、数学者、教育家であったラウレンティウス・ヴァッラ(Laurentius Valla, 1407~1457)でした。ラテン語に精通していたヴァッラは、ラテン語の衰退理由が、正確なラテン語の知識の欠如によるものだと考えました。

 また、ヨーロッパ社会の新教・旧教間の論戦も、同じ言語を使いながらも意図することが正しく伝わりきれない意思疎通の問題と見ていました。彼は言語を正しく操ることこそが意思疎通や文化変容の唯一の解決策だと考え、これを土台に『ラテン語の典雅(てんが)』を上梓します。

「言葉を正しく使う」ことの重要性

 著書の中でヴァッラは、「自分自身を表現する正しい用法がすべての表現の礎となり、それが真の知的体系を形成する」と述べ、ラテン語を使うことの目的とラテン語の文法の正誤を整理し、重要なコミュニケーションツールとしてのラテン語の品格を説いています。

 私は意思疎通の道具としての言語は、船のようなものだと考えています。

 本来、船そのものに加え、船が進むその先を見るべきなのに、すでに船が通過した水面の泡のほうを見てしまいがちです。誤解がつのり、意思疎通ができないのは当然ではないでしょうか?

 ヴァッラが言った「ラテン語の典雅」とは、「ラテン語が文学的に、または言語学的に優れているという意味よりも、正しく言葉を操れてこそ、他者との正しいコミュニケーションが可能であり、ラテン語はまさにそれに適した言葉である」という意味ではないかと、私は考えています。

 私たちも同じです。何ヵ国語もしゃべれることや、難しい外国語がわかることが素晴らしいわけではありません。

 私たちは、外国語を流暢に操れるが、相手の話に耳を傾けようとしない人よりも、まだ言葉もおぼつかない子どもの話の中に美しさを見いだすものです。このことは私も折に触れて考えています。

 私自身、品のある言葉を使えているのだろうかとね。みなさんはいかがですか? みなさんの言葉の中に、典雅は発見できますか?

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)