ラテン語こそ世界最高の教養である――。東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏による「ラテン語の授業」が注目を集めている。同氏による世界的ベストセラー『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』(ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳)は、ラテン語という古い言葉を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済のルーツを解き明かしている。韓国では100刷を超えるロングセラーとなっており、「世界を見る視野が広くなった」「思考がより深くなった」「生きる勇気が湧いてきた」と絶賛の声が集まっている。本稿では、本書より内容の一部を特別に公開する。

「英語の前に国語をしっかり勉強すべき」と断言できる、たった1つの理由Photo: Adobe Stock

母国語でできないことは、外国語でもできない

 韓国ではまだ幼いうちから、子どもたちに読み書きはもちろん外国語教育まで受けさせます。それなのに自分の考えを表現する方法までは教えていません。これではコミュニケーションの壁にぶつかるほかないでしょう。

 考えをまとめられないまま相手にぶつけておきながら、自分の話を聞いてもらえないと腹を立てる。このようにお互いの発言がすれ違う光景は私もよく見てきました。

 結局これが外国語の問題にもつながります。母国語でできないことは、外国語でもできないのです。また、悲しいかな、わが国のほとんどの言語学習が試験に帰結しているのです。“言語”を知りはすれど、その言語を“うまく使えない”とでも言いましょうか。

言葉とは船である

 私は意思疎通の道具としての言語は、船のようなものだと考えています。本来、船そのものに加え、船が進むその先を見るべきなのに、すでに船が通過した水面の泡のほうを見ているから生じる問題なのです。誤解がつのり、意思疎通ができないのは当然ではないでしょうか?

 15世紀イタリアの人文科学者、数学者、教育家であったラウレンティウス・ヴァッラ(Laurentius Valla, 1407~1457)は、著書「ラテン語の典雅」で「正しい用法がすべての表現の礎となり、それが真の知的体系を形成する」と述べています。

 これは「ラテン語が文学的に、または言語学的に優れているという意味よりも、正しく言葉を操れてこそ、他者との正しいコミュニケーションが可能であり、ラテン語はまさにそれに適した言葉である」という意味ではないかと、私は考えています。

(本原稿は、ハン・ドンイル著『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』を編集・抜粋したものです)