日本経済への遺言#4Photo by Kazutoshi Sumitomo

2022年、日本をけん引してきた各界の大物が相次いで鬼籍に入った。週刊ダイヤモンドで過去に掲載した大物7人の生前のインタビューを基に、彼らが日本の政治・経済に遺したメッセージを紹介する。特集『日本経済への遺言』(全8回)の#4では、2001年のソニー(現ソニーグループ)会長の出井伸之氏と現代経営学の巨人、P・F・ドラッカー氏の対談を再掲する。米カリフォルニア州で3時間にわたり繰り広げられた白熱討論を前後編2回に分けて紹介する。前編では、インターネット時代にはブランドが重要だと指摘するドラッカー氏に対し、出井氏はソニーが持つ強みを明かした上で、目指すべき新たなビジネスモデルについて語った。(ダイヤモンド編集部)

※「週刊ダイヤモンド」2001年3月3日号の対談記事を基に再編集。肩書や数値などの情報は雑誌掲載時のもの

ドラッカー氏「ソニーはビジョンを持っていた」
「マネジメントも変えていかなくては」出井氏

ドラッカー 盛田さん(編集部注:盛田昭夫・ソニー創業者)が初めて米ニューヨークにいる私を訪ねてきたのは1954年、彼がまだ30代半ばのころだ。

 そのとき私にソニーについてのビジョンを語ってくれた。トランジスタの可能性、日本社会がコミュニケーションを求めていること、グローバルな資金調達などだ。しかし、正直にいって、「ずいぶんと野心的なことを言うなあ」くらいにしか思っていなかった。

出井 彼はトランジスタラジオという小さなビジネスから出発したのですが、まだ町工場ほどの規模のときに、社名を東京通信社からソニーへと変えた。勇気ある行動だった。

ドラッカー 50年も前に、グローバルカンパニーとしてのビジョンを持っていた。最初にゴールを決め、目標を完璧に理解していたからこそ、勇気ある行動がとれた。その後、ソニーは急速に成長し、事業領域も広げていった。

出井 もともとは、純粋にテクノロジーの会社だった。研究で差をつけるというのがモットーで、「最初のトランジスタラジオ、最初のテープレコーダー」とテクノロジーに関するものならなんでも最初に開発する、それが基本だった。

 次に、ウォークマンの登場でライフスタイルを創造する会社に変わり、さらに、音楽会社や映画会社を買収した。

 多くのアーティストや、クリエイティブな分野の人びとがソニーに加わり、会社の性質、方向性は劇的に変わっていった。日本と欧米、ハードウエアと音楽・映画というクロスカルチャーが力の源泉だ。

ドラッカー マネジメントも変化しているか。

出井 命令を発して監督するマネジメントから、現在は人びとにビジョンを持たせ、優先順位を設定するような方向を示すようなマネジメントに変えていかなくてはならない。

ドラッカー それは知識社会におけるマネジメントの特徴だ。

出井 あなたの言う知識社会とは、どういったものか?

ドラッカー 3とおりに定義できる。まず、労働力の面での定義。どの先進国でも、自分の手で直接日々の糧を稼ぎ出している人は全人口の5分の1程度で残りの80%は、自分の知識を仕事に適用することで生計を立てている。これが、人の面からみた知識社会の定義だ。

 次に、知識が富を生む資源となる社会という考え方がある。これは知的財産という意味とは違う。

 3番目の定義は、コンスタントに変化し続ける社会というもの。知識の陳腐化は早い。私の甥は放射線医療の権威だが、2~3年ごとに学校に戻って勉強し直さなくてはならないのだという。現在では、ある知識が同じ分野に属す世界中の人びとに知られるようになるまでに、2週間と要しないのではないか。

インターネットは産業だけでなく、経営システムやマネジメントにも変化を迫ることになった。次ページでは、両氏はソニーという会社は「コミュニケーション会社」だと見解を一致させる。出井氏は、コミュニケーション会社としてのソニーが持つ強みとともに、ソニーというブランドの将来像を熱弁する。また、インターネット時代では「社員=部下」ではなくなると指摘するドラッカー氏に対し、出井氏は給与体系に加え、ソニーの強みが組織の求心力になると強調する。