日本経済への遺言#6Photo by Masato Kato

2022年、日本をけん引してきた各界の大物が相次いで鬼籍に入った。「週刊ダイヤモンド」で過去に掲載した大物7人の生前のインタビューを基に、彼らが日本の政治・経済に遺したメッセージを紹介する。特集『日本経済への遺言』(全8回)の#6では、ライフコーポレーションの清水信次氏が、闇市から一代で流通業界の雄にのし上がった戦後の経営者人生を振り返る。そして、「敗戦やバブル崩壊も躍進のチャンスだった」とすら言い切る清水流の経営哲学も明かす。(ダイヤモンド編集部)

「週刊ダイヤモンド」2007年2月10日号のインタビューを基に再編集。肩書や数値などの情報は雑誌掲載時のもの

開戦時に「日本は負ける」と直感
自分が死ぬかもと恐怖に襲われる

 忘れもしない、それは1941年12月8日の早朝だった。大阪貿易学校の学生だった私は、二学期の試験の前日で、徹夜で勉強していた。朝6時台のラジオのニュースで、太平洋戦争の開始を知った。その瞬間、「日本は負ける。焼け野原になる」と直感。すぐさま両親を起こし、「疎開しなさいよ」と進言した。

 むろん怒られた。日本はそれまで戦争に負けたことがないのになにを言うかと。しかし、こういうことには勘が働くタイプだった。

 その理由は、幼少時の生活環境にある。

 三重県津市で紡績業を営んでいた家業が昭和大不況でつぶれ、大阪に移ったが、3歳の頃から、親父は取引先との会合のたび料理屋に私を連れて行った。そこには海軍や陸軍の連隊長や三重県知事などが大勢集まった。私は7歳くらいまで、おとなの会話を常に聞きながら育ったのだ。

 満州事変、ヒトラーやムッソリーニの動向などをはじめ、五・一五事件、二・二六事件から日本の政治経済に至るまで、普通の子どもが耳にしえない情報を繰り返し聞いたことで、知識が豊富になり、興味も深まっていった。脳がそういう情報を受け付け、考える習慣ができていたのだろう。

 12月8日の朝は、まるで走馬灯を見るかのように、焼け野原のシーンが脳裏に浮かんだ。同時に、自分も死ぬかもしれないという恐怖に襲われた。小さい頃は陸軍士官学校や海軍兵学校への入学を希望していたが、いざ戦争が始まってみると、入隊は一日でも遅いほうがいいと考えた。44年に陸軍の鉄道隊に入隊したのも、船舶や航空などと比べて命に危険がなさそうだったから希望したのだ。

 あとから知ったことだが、ダイエーの中内功さんも器用に逃げ回って生き延びたくちで、「申し訳ないから靖国神社の前は通れん」と、いつも私に言っていた。その私も、靖国神社の近くを通るのは今でも心苦しい。

次ページでは、終戦で命拾いした清水信次氏が、経済警察に摘発された過去などの苦難を明かす。また、清水氏が貿易業を見切ってライフコーポレーションの設立に至った経緯も解説する。一方で、「敗戦やバブル崩壊」を躍進のチャンスにできた清水流の経営者の心構えも本人が披露する。