意思決定プロセスは、実は非常に錯綜していた

 こうして、義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模の米軍飛行場への夜間攻撃となった。しかし、この義号作戦遂行に至る命令系統および意思決定プロセスは、実は非常に錯綜していた。義烈空挺隊は、第六航空軍の指揮下にあった。しかし、その使用に関しては、大本営の許可が必要だったのである。

 第六航空軍は、戦術的にこれまで義烈空挺隊の投入のための最適な機会を絶えずうかがってきた。4月中旬になり、沖縄の米軍飛行場が強化されたため、投入の好機と考え、第六航空軍司令官の菅原道大中将は高級参謀の井戸田勇大佐を大本営に派遣し、強くその作戦実行の許可を求めた。

 ところが、井戸田の陳情に対し、参謀本部の第一部長宮崎周一中将は、近日中に現地に出向くからそのときに検討したいと言い、返事をしなかった。その後も、菅原は何度も空挺隊の投入を催促した。そして、ついに5月2日に「義号作戦」の準備命令が下った。しかし、作戦実行命令はなかなかでなかった。

 大本営が義烈空挺隊の投入を逡巡していたのは、5月3日に開始された陸軍第三二軍による総攻撃が失敗し、勝つ見込みの薄い沖縄戦に日本陸軍最精鋭の義烈空挺隊を投入するのは戦略的に無駄だと考えはじめたからである。つまり、大本営陸軍部は海軍と異なり、すでに沖縄戦をあきらめていたのであり、何よりもきたるべき本土決戦のために義烈空挺隊を温存したいと思っていたのである。

 その後、約束通り、宮崎が福岡に訪れた。待ちかまえていた菅原は、宮崎に対して、「特攻隊に指定されてすでに半年間、計画しては取りやめになること再三に及び、兵士の心情を考えると、忍び難い」と決断を迫った。このとき、宮崎は現場の「黒い空気」を読み取ったのか、その場での即答を避けたが、東京に帰るとすぐに義烈空挺隊投入を決定し、「義号作戦認可せらる」という許可の電文を打電させた。

 ところが、大本営の許可はとったものの、沖縄戦の大勢も決し、戦略的にも戦術的にも時期を逸した戦況となって、今度は菅原自身が作戦の決行に迷いはじめた。

 しかし、これまで何度も出撃中止とされた奥山道郎隊長が、「空挺部隊として、もし未使用に終わるようなことがあるならば、国民に対して顔向けできない」と心境を吐露した。このとき、菅原は部隊の「黒い空気」を理解した。菅原も、この「黒い空気」に支配され、部下に死に場所を与えるために出撃命令を下した。

 沖縄戦をあきらめていた大本営陸軍部も、これまでなかなか義烈空挺隊の使用許可を出さなかったが、いったん作戦実行が決まると、沖縄戦最大規模の米軍飛行場への夜間攻撃となる本作戦に大きな期待を寄せはじめたのである。