ついに義烈空挺隊の作戦実行

指導者(リーダー)の不条理『指導者(リーダー)の不条理』
菊澤研宗 著
定価1155円

 5月19日に、菅原中将は奥山と諏訪部両隊長を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをした。同月20日には、義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃が決定した。

 作戦は、第一波攻撃として読谷の北飛行場と中飛行場に胴体着陸し、同基地の米軍機を破壊するとともに、敵の司令部・物資集積所を攻撃する。第二波攻撃は、沖縄の友軍と連絡し、さらなる遊撃戦を敢行するといった作戦であった。

 こうして、作戦は遂行された。今日、その戦果は必ずしも明確ではない。しかし、当時、義烈空挺隊が突撃し、嘉手納、そして読谷飛行場方面で火の手が上がるのを目撃していた陸軍第三二軍の高級参謀であった八原博通大佐の次の言葉が参考になるだろう。

「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ、奥山大尉以下120名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下し、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」(八原博通著『沖縄決戦 ―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年)

 理性的な八原参謀のこの言葉から、その効果はそれほど大きくなかったのではないかと思われる。なぜもっと効率的に彼らを投入できなかったのか。そこに、日本陸軍が不条理な「黒い空気」に支配されていた可能性が見てとれるのである。