また、財政にはマクロ経済の調節機能がある。財政収支の大きさは経済環境に応じて調節すべきであって、個別の支出が税金で賄われるか国債でファイナンスされるかは時により異なる(20)。一律に「○○費は××税を財源とすべきだ。国債で賄うのは無責任だ」と言い張るような議論はマクロ経済に対して無責任であり、硬直的で不毛だ。

 国の債務残高やその中で貨幣化された「マネー」の分量は時々に調節されるべきだが、経済成長と共に大きくなっていくのが自然だ。国の債務とマネーを供給することは財政(と中央銀行)の任務だが、財政赤字の追加的な供給の手段は、国が支出の中身を決める「財政出動」である必要はない。減税や現金給付など、国民に支出の内容(ひいては付随する資源配分)を決めてもらってもいい(21)。

 この点は、しばしば盲点に入りがちで、財政赤字や財政支出の金額の国内総生産(GDP)比は現金給付で大きくても、政府が支出の内容に関わらないという意味で、「大きな支出で、小さな政府」が成立し得る。

 大まかには、インフレを目指す場合には財政赤字の追加的供給が必要で、特に政策金利ゼロまで金融緩和を行ってしまうと、マネーを有効に増やすためには財政の協力が必要だ。他方、インフレを抑制するには財政を引き締める(赤字を減らしたり、黒字にしたりする)必要がある(おそらく今の米国には必要な政策だろう)。財政赤字の供給過剰の主な副作用はインフレだ。インフレ率が高すぎる場合には財政を引き締めたらよく、そのためのめどとしてインフレ目標がある(22)。

 いわゆる政府と日銀のアコード(政策合意)にあっては、財政側をマクロ経済運営に協力させることの必要性こそが大きいのではないか。いずれにしても、景気や雇用の対策にも物価対策にも、「金融政策のみ」あるいは「財政政策のみ」を割り当てなければならないということはない。両者の組み合わせを使うことが必要であり自然だ(23)。

 ところで、時に財政赤字について「将来世代に負担を先送りすることはできない」と叫ぶ政治家がいるのは困ったものだ。国債は将来税金で償還しなければならないかもしれないが、他方将来の税金の負担者の中には資産としての国債の持ち主(相続でもらった次世代かもしれないが)いる。そうであるから、国債が国内で消化されていたら「将来世代全体としては」世代内で貸し借りの清算が行われるだけで負担が増えるわけではない(24)。

 損得は発生するかもしれないが(国債の保有者は例えば将来予想外のインフレになると実質的に損をするし、その逆もある)、それは将来の課税や再分配で調整可能だ。大きな声では言えないが、「将来世代へのツケ回し論」を大っぴらに言うか否かを、政治家の知能テスト代わりにするといい。