【国としての日本のリアルな形】
に関わる6つの命題
26. 現状の日本は日本人が自由に自己決定できる国ではない
27. 大砲を独占すると「大砲もバターも」独占できる
28. 日本国憲法には「子会社の定款」のような拘束力と有用性とがある
29. 国の管理職である官僚は大金持ちの強化も経済的弱者の救済も好まない
30. 「手による投票」も大事だが、真に有効なのは「足による投票」だろう
昨年はウクライナで戦争が始まって、国というものについて考える機会が増えた。好き嫌いを排して現実的に考えたい。
日本は、建前として自由な言論と選挙制度を持っている自由な民主主義国家だ。しかし、実質的には独裁者の代わりに米国の意思を権威と仰ぐ「ソフトな権威主義国家」なのだと理解しておくと物事の見通しが良くなる(25)。
ウクライナ戦争は米国の軍産複合体にとって、米国人の血を流さない軍需創出を可能にした新しいビジネスモデルの成功例となった。そして、日本はこれに呼応して、防衛予算のGDP比2%への倍増と敵基地攻撃能力の保持をすんなり決めた。仮に政党ベースで政権交代があっても、実質的に米国の支配下にある体制に変化はあるまい。日本は事実上、体制や国としての大きな行動方針を自分では決められない(26)。
日本が米国に追従する以外に当面の選択肢がない理由は、軍事力を米国に依存しているからであり、軍事的な自立が不可能だからだ。前の戦争の負け方が響いている(今の国民には「サンクコスト(埋没費用)」なので仕方がない)。「大砲か、バターか」は軍事と民生のバランス選択に関する古い例えだが、大砲で圧倒すると、他人のバターも自分の支配下に置くことができるという嫌な現実に気が付く(27)。
日本は日米地位協定の支配下にあり、良くも悪くも米国の子会社のような存在だ。日本国憲法は、子会社の運営について定めた「子会社の定款」のような存在だ。「押しつけられた憲法だ」というのは、その通りなのだが、子会社の社員(=日本国民)としては「親分(=米国)、定款を変えてくれないと、われわれは直接戦争には行けないのです」と言い訳できる楯のような有用性が存在する(28)。