1年半後、母親からメールが届き、H君が最難関私立大学の法学部に進み、声優学校に行きたいと言った秋の日のことを完全に失念していることを知った。母親のメールは喜びが溢れるような文面だったが、それは大学に合格したことよりも、母親としてずっと気にかけてきた、父親と長男の確執が解けて流れ去ったことに対するものだった。私はメールを読んで、改めてこの母親は良い人だと思った。母親が良き存在となって、決定的な事態が巧妙に回避されたのだろうとも感じた。H君と同様、母親も真剣に脱出経路を模索していたのである。

 子供の突然の荒唐無稽な発言を頭から否定せず、なぜそんな不自然なことを言うのか、まずは深く考えるべきだ。が、考えても当事者である親が気づけないことが圧倒的に多い。このケースでも、父親が息子の志望した背景に気づくまでに相当の根回しが必要だった。H君自身は、声優になる夢に心を奪われている。そうなると、「声優という職業の妥当性」という核心から外れた話し合いとなり、ひたすら平行線をたどってしまう。重要なのは、第三者(この場合は母親)が冷静で客観的な視点に立って、親としての謝罪のポイントを探ることだ。

 ここで母親が父親のほうに加担すれば、恐らくH君は暴力を行使するか、部屋に閉じこもるか、その二択に追い込まれたことだろう。問題が深刻化すれば、親は結局、声優学校に進学することを許容せざるを得ない。

 子育ての過程では、勝ち組負け組意識、文系理系意識を排除しなければならない。ひたすらに子供の良いところを見出し、それを褒め続けることで子供は自分の進路を伸び伸びと考え、目標に向かって熱心に勉強を重ねる。そうなれば、親は子供の成長と自立に大きく寄与する子育てをしたことになるのだ。