富豪の趣味とコレクションは文化を大きく育てる
富豪の道楽と遊戯は、文化を育むものでもある。美術品のコレクションは、画家や彫刻家の生活を支えた証しともいえる。岩崎小彌太は美術家だけでなく、時に面白い文化人をサポートしていた。
その一人が、戦前の思想家で、政界でも活躍した北昤吉(1885~1961)だ。彼は北一輝(革命思想家。二・二六事件で死刑)の実弟で、「進歩的日本主義者」を自称していた。昤吉は1918年から22年までアメリカやドイツの大学へ留学するが、この4年間の留学費用と生活費の全て(月額350円、現在の価値で約150万円)を、小彌太が出していた。
岩崎小彌太は北昤吉にこう語っていたという。「北君、私はあなたに条件は全然つけない。もともと、私は主義というようなことが大嫌いの男だ。それで条件でも何でもないが、もし希望を述べるなら、君は私と全く反対の立場に立ってくれても少しも差支えない。ただ日本が、将来世界の日本として立派に仲間入り出来るよう、日本の思想界を指導するいわゆる社会の木鐸者となって欲しいね」(岡野保次郎「北昤吉先生の思い出」稲辺小二郎編『追想記』北昤吉三週忌法要会所収、1963年)。ちなみに、岡野は戦後の三菱電機社長である。
小彌太がサポートした人物には、作曲家の山田耕筰(1886~1965)もいる。1910~13年、山田はベルリン王立アカデミー高等音楽院へ留学するが、この費用も全て岩崎小彌太が出している。
小彌太自身は、東京帝国大学を中退して英ケンブリッジ大学へ留学し、滞在中に西洋音楽に親しみ、チェロを学んだ。山田が帰国すると、日本人初の交響曲「かちどきと平和」を1914年に初演する。会場は帝国劇場、指揮は山田で、オーケストラは東京フィルハーモニック・ソサエティー管弦楽団だった。このオーケストラを編成したのも岩崎小彌太だ(宮川隆泰『岩崎小彌太』中公新書、1996)。
間違いなく、富豪の趣味とコレクションは文化を大きく育てるのである。