平凡な武士が語る
江戸時代の日常生活

 私の先祖は、東三河の農民で、戦いになれば地元の有力者に誘われて参加するといった具合だが、近在の領主が家康に仕えて関東で城持ちになったので、ついて行くことにしたらしい。

 殿様が関ヶ原の戦いのあと伊勢の大名になって100石ほどもらっていたが、三代将軍家光の時に、その殿様の後継者がいなくなる無嗣断絶(むしだんぜつ)で取りつぶしとなり、私の先祖は浪人となった。しかし、しばらくして、その殿様の親戚が加増されて近江鯰江城主に栄転し、新規に召し抱えをするときに、半分の禄高の50石でいいならということで誘われた。

 西三河出身の大名は岡崎譜代といわれて、「どうする家康」で言うと3月中旬あたりの回で家康様に採用されることになる武士たちだ。西三河の安城譜代に比べるとやや冷遇されて老中などとかにはなれず、京都市中火消しが幕府での伝統的なお役目だ。

 松本家も前の藩では小さな領地を持っていたが、今は、米で現物支給を受けている。15歳で元服し25歳で結婚した。先輩の娘を組頭が世話してくれて結婚した。昔なら会わずに決めさせられたが、自分の場合は、祭りのときにそれとなくあの子だと紹介してもらった。

 子どもは男女1人ずつ、使用人が夫婦で同居していて、戦になったらこの者を連れていくことになる。農村から出てきていて、手が足りないときは親戚も手伝いに来てくれる。

 自分が子どもの頃は藩校がなく手習い塾で教わっただけだが、長男は義務ではないが藩校に通っている。藩校で成績がいいとお役目に就きやすいと評判だ。漢文だけ勉強するので算術も国学も教えてくれない。ただ、「日本外史」という頼山陽なる学者の歴史読み物がはやって、子どもが借りてきたのを私も読んだら、面白くてご先祖様たちの世界もよく分かる。娘は行く学校もないが、親戚に読み書きを少し習わしている。

 50石といっても手取りは20石だ。そして、5石くらいは自分たちが食べる。それから、特産品の人形を作ったりする内職が2両(ほぼ1石の米価は1両)ほどになって、女たちの小遣いになっているし、機織りで家族の普段着くらいは作れる。庭は広いので野菜など作っている。

 仕事は普請の監督などだが、登城するのは1週間に一度くらい。午前8時に登城し、会議があったりして昼には帰宅する。自宅に仕事の相談で客を迎えることもある。