2016年の発売以降、今でも多くの人に読まれ続けている『ありがとうの奇跡』。本書は、小林正観さんの40年間に及ぶ研究のなかで、いちばん伝えたかったことをまとめた「ベスト・メッセージ集」だ。あらゆる悩みを解決する「ありがとう」の秘訣が1冊にまとめられていて、読者からの大きな反響を呼んでいる。この連載では、本書のエッセンスの一部をお伝えしていく。

ありがとうの奇跡Photo: Adobe Stock

「人間は、たいしたものではない」と知れば、「争いごと」は起こらない

 あるとき、親鸞(浄土真宗の宗祖)は、檀家さんから、「親鸞上人さんは、もちろんすばらしいお方ですが、お弟子さんたちも、みなさん、すばらしい人格を持った方々ばかりですね」と言われ、こう答えたそうです。

「私には、弟子はいません。この人たちはみな、私の師匠です」

 親鸞は、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉を残したといわれています。

「善人は、心穏やかな死を迎えることができる。しかし、悪人は、もっと神仏に近い死を迎えて極楽往生を遂げる」という意味でとらえられるそうですが、この考え方は、「悪人正機説」と呼ばれています。

 この「悪人正機説」は、いろいろな解釈がされているのですが、どうも親鸞の真意が正しく伝わっていない気がします。

 ある人が、「悪人正機説」を次のように説明していました。

「この世で善人の役割をやってくださる人は、それなりにありがたい存在だが、悪人の役割をしてくださる人は、もっとありがたい存在である」

 じつは、「私の解釈」は、まったく違います。

 私は、宇宙のしくみを研究している立場として、「親鸞という人が、いったい何に気がついたのか?」ということに興味を持ちました。

 そして、言葉の解釈ではなく、「親鸞が何を言いたかったのか?」を考えてみたのです。その結果、次のような、私の解釈に至りました。

「自分を善人で立派なものだと思っている人は、大往生を遂げるかもしれない。しかし、自分は悪人で、どうしようもないやつだと思っている人のほうが、本当の仏である。自分で自分のことを善人だと思っている人よりも、自分を悪人だと思って苦しんでいる人のほうが、より仏に近い」

 おそらく、親鸞は、「『自分は、たいしたものじゃない。悪いことをたくさんしている、ろくでもないやつだ』ということをわかっている人のほうが、より仏に近い」と言いたかったのではないでしょうか?

「人間はたいしたものではないんだ」と思い切る気持ちが、親鸞にはあったようです。

「自分はたいしたものじゃないんだから、自分のところに来ている人たちは、弟子ではなくて師匠である」

 そう思っていたから、弟子たちをつくり変えたりしなかったし、自分の思い通りに動かそうともしなかったのでしょう。

 このことがわかると、「『正義感』『使命感』がどれほどマイナスのエネルギーか」ということに気がつきます。

 憎しみや恨みというものは、すべて「自分が正しい」と思ったところからはじまります。たとえば、みなさん全員が、「自分は正しくて、善人だ」と思っているとします。

 すると、「善人と思い込んでいる集団」というのは、常に闘いと争いを引き起こします。

 けれど、「自分が間違っているかもしれない」と思ったら、闘いや争いにはなりにくい。

 もし地球上が、「自分は間違っているかもしれない」「罪を犯しているかもしれない」「たいしたものではない」と思っている人間ばかりになったとしたら、地球上から「争いごと」はなくなるのではないでしょうか? 私はそう思います。