沖縄での練習試合で敗戦
小宮山がため息をついた真の理由
沖縄ではオープン戦5試合が組まれた。
ある社会人チームとの試合。0-2で5回表から中継ぎを担った投手が大乱調。ストライクが入らず、四球、死球にワイルドピッチ。ヒットなしで3点を献上してしまう。「あれで試合は壊れた」。試合後の監督の口調は苦々しかった。
彼は足が地に着いていなかった。公式戦での登板はない。ここでアピールしなければと奮起し、それが空回りしたように見えた。相当なプレッシャーを背負っていたのではないか。それを問うと、小宮山は首を横に振った。
「このくらいのプレッシャーでストライクが入らないようでは。ピッチャーにはハートの強さが必要なんだから」
猛練習こそがハートを強くする。小宮山がそうだった。だが、そんな小宮山にも足が震えるような場面があったという。
1991年、プロ2年目の小宮山は開幕投手を任される。相手は西武ライオンズ。シーズンの幕開けを楽しみに、所沢の西武ライオンズ球場には5万人の観客が詰めかけていた。
「前の年までは村田(兆治)さんが開幕投手。その後を託されたものの、実際にマウンドに上がるとものすごいプレッシャーを感じた。あのときは地に足が着いていなかった」
小宮山はライオンズの強力打線に初回に4点を奪われ、チームは0-14と大敗した。この手痛い体験を猛省し、翌年1992年の千葉マリンスタジアムでの開幕戦は堂々とマウンドに立つ(オリックスに0-3。小宮山は9回を投げ切った)。1993年開幕戦、グリーンスタジアム神戸でのオリックス戦でも完投、8-1と勝利をものにしている。
そこで浦添での中継ぎ投手である。監督が深く嘆息したのは彼の乱調ではない。マウンドを降りたその後の立ち居だ。
「ストライクが入らなくて本当に悔しいのなら、今ごろはブルペンで投げているはず。なぜ、それができないのか」
プレッシャーを抑えられず、制球が定まらないのなら、ブルペンで投げ込むしかない。これだけ投げ込んできたんだという自信。それがマウンドでの足の震えを止める。
監督就任5年目を迎えて、小宮山には変えたことがあるという。
「これまで、言われなくても分かるだろうと思って接してきた。それをやめた。失敗したとき、『くそっ』と悔しがったとしても、今の学生はすぐに忘れてしまう」
これまで「上」に合わせていた基準を、いくぶん下げたという。いわば目線を下げるわけだが、そのぶん視線は強くなる。
「今、もっと、できることがあるんじゃないのか」
監督の強い視線。それが浦添の空気に緊張感を生んでいると思うのだった。(敬称略)
1965年千葉県生まれ。早大4年時には79代主将。90年ドラフト1位でロッテ入団。横浜を経て02年にはニューヨーク・メッツでプレーし、千葉ロッテに復帰して09年引退。野球評論家として活躍する一方で12年より3年間、早大特別コーチを務める。2019年、早大第20代監督就任。