「ここまでデータに基づいて書かれた健康習慣本は他にない」(統計家・西内啓)と評され、話題となっている『健康になる技術 大全』。本書の著者、林英恵さんが語る「健康になる技術」とは、健康でいるために必要なことを実践するスキルです。本連載では、「食事」「運動」「習慣」「ストレス」「睡眠」「感情」「認知」のテーマで、現在の最新のエビデンスに基づいた健康に関する情報を集め、最新の健康になるための技術をまとめていきます。健康のための習慣づくりに欠かせない考え方や、悪習慣を断ち切るためのコツ、健康習慣をスムーズに身につけるための感情との付き合い方などを、行動科学やヘルスコミュニケーションのエビデンスに基づいて、丁寧にご紹介していきます。今回は、「悲しみ」が健康に悪影響を及ぼす理由についてです。(写真/榊智朗)
監修:イチローカワチ(ハーバード公衆衛生大学院教授 元学部長)
周りの環境に悲しみの原因を見出し、自分を取り巻く状況を変えようとする
悲しみも怒りと同様、人間が頻繁に持つ感情の1つです。悲しみを作りだす鍵となるのは、取り返しのつかない何かを失ったと感じる喪失感です(*1,2)。
これが、その後の意思決定や行動に影響を与えます。怒っている人が、自分で物事をコントロールできると考えたり、他人を責める傾向にあるのに対して、悲しみの感情を持った人は、周りの環境に悲しみの原因を見出し、自分を取り巻く状況を変えようとします。そして、自分の存在をちっぽけに感じ、自分がコントロールできることは小さいと感じるようになります。
ご褒美が欲しくなる「悲しみ」
さらに、「何かを失ったこと(ロス)」の状況を変えるために、甘いご褒美のような利益を求めて行動を起こす傾向にあります(*3)。
たとえそのご褒美がリスクのあることだったとしてもです。だいたいこのような行動は、刹那的で快楽を伴うことが多いのです。
喫煙、飲酒、栄養のないジャンクフードの摂取、危険なセックス、ドラッグが「ご褒美」になってしまう
残念なことに、ロスを埋めるための「ご褒美」は健康習慣の分野にたくさんあります。喫煙、飲酒、栄養のないジャンクフードの摂取、危険なセックス、ドラッグ、など挙げればきりがありません(*1)。
一瞬の楽しさを与えるものが多い一方で、このような行動は、将来の健康や命を脅かします。アメリカ映画では、失恋した時に、アイスクリームやジャンクフードを大量に食べるシーンが象徴的に描かれることがよくあります。
日本語には「心の隙を埋める」という言葉があります。この言葉は、まさに悲しみという感情の特徴をよく表しています。心の隙(ロス)を埋めるのに、ドラッグや危険なセックスなどの誘惑にかられたり、お酒におぼれてしまったり、というのは、科学的に見て、ある意味、悲しみとのバランスを取ろうとするとても理にかなった行動なのです。
悲しみの感情に特徴的なのは、苦しい状況を変えるために、自分にとって快適な何かが欲しくなることです。ですから、先に挙げたような、その場しのぎの、すぐに満足できるものに魅かれてしまうのです(*4)。
映画などの擬似的な体験でも、健康行動に悪影響は及ぶ
特にこの傾向は、思春期の若者に多く見られます。
興味深いのは、悲しみの感情は、自分の人生に起こった出来事による悲しみだけではなく、映画などの擬似的な体験によるものでも健康行動に影響を与えることです。
アメリカで行われた実験では、悲しい映画を見た人は、ハッピーな映画を見た人よりも、不健康なもの(バターのポップコーンとチョコレート)をより多くとる傾向があることがわかりました。また、逆に、ハッピーな映画を見た人は、悲しい映画を見た人よりもより健康的な食べ物(レーズン)を好むことがわかっています(*5)。
健康に悪い習慣は、一瞬・一時の刺激や快感、喜びを与えてくれるものが多いです。健康のことを考えていても、効果が現れるのに時間がかかる未来への投資(遠くのご褒美)よりも、刺激や快感といった「近くの喜び」に惑わされがちです。健康的な習慣をつけるのはもともと難しいのですが、悲しみは、この「近くの喜び」になるものと非常に相性が良いのです。
そのため、悲しみが続くことで、たばこ、運動不足(家でのんびりしている方が快適)、アルコールなど、不健康の温床となってしまうのです(*1)。
【参考文献】
*1 Roberto CA, Kawachi I. Behavioral economics and public health. Oxford, U.K.: Oxford University Press; 2015.
*2 Lazarus RS. Emotion and adaptation. New York, N.Y.: Oxford University Press; 1991.
*3 Lerner JS, Small DA, Loewenstein G. Heart strings and purse strings: carryover effects of emotions on economic decisions. Psychol Sci. 2004;15(5):337-41.
*4 Lerner JS, Li Y, Weber EU. The financial costs of sadness. Psychol Sci. 2012;24(1):72-9.
*5 Wansink B, Garg N, Inman JJ. The influence of incidental affect on consumers' food intake. J Mark. 2007;71(1):194-206.
(本原稿は、林英恵著『健康になる技術 大全』から一部抜粋・修正して構成したものです)
パブリックヘルスストラテジスト・公衆衛生学者(行動科学・ヘルスコミュニケーション・社会疫学)、Down to Earth 株式会社代表取締役、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任准教授、東京大学・東京医科歯科大学非常勤講師
1979年千葉県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒業、2006年ボストン大学教育大学院修士課程修了、2012年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程を経て、2016年同大学院社会行動科学部にて博士号取得(Doctor of Science:科学博士・同学部の博士号取得は日本人女性初)。専門は、行動科学・ヘルスコミュニケーション、および社会疫学。一人でも多くの人が与えられた寿命を幸せに全うできる社会を作ることが使命。様々な国で健康づくりに携わる中で、多くの人たちが、健康法は知っていても習慣づける方法を知らないため、やめたい悪習慣をたちきり、身につけたい健康法を実践することができないことを痛感する。長きにわたって頼りになる「健康習慣の身につけ方」を科学的に説いた日本人向けの本を書きたいと思い、『健康になる技術 大全」を執筆した。
2007年から2020年まで、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして本社ニューヨーク・ロンドン・東京にて勤務。ニューヨークでの勤務中に博士号を取得。東京ではパブリックヘルス部門を立ち上げ、マッキャンパブリックヘルス・アジアパシフィックディレクターとして勤務後、独立。2020年、Down to Earth(ダウン トゥー アース)株式会社を設立。社名は英語で「実践的な、親しみやすい」という意味で、学問と実践の世界を繋ぐことを意図している。現在は、国際機関や国、自治体、企業などに対し、健康に関する戦略・事業開発、コンサルティングを行い、学術研究なども行っている。加えて、個人の行動変容をサポートするためのライフスタイルブランドの設立準備中。2018年、アメリカのジョン・ロックフェラー3世が設立したアジアソサエティ(本部・ニューヨーク)が選ぶ、アジア太平洋地域のヤングリーダー“Asia 21 Young Leaders”に選出。また、2020年、アメリカのアイゼンハワー元大統領によるアイゼンハワー財団(本部・フィラデルフィア)が手がける、世界の女性リーダー“Global Women’s Leadership Fellow”に唯一の日本人として選ばれる。両組織において、現在もフェローとして国際的な活動を続ける。
『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館)をプロデュース。著書に、『健康になる技術 大全」(ダイヤモンド社)、『それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと』(あさ出版)がある。
https://hanahayashi.com/