世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、サルトルの『存在と無』を解説する。

ドイツ占領化のパリ、それもカフェで書き上げられた本書は、「意識」の問題を人間の「存在」の問題としてとらえた。第二次世界大戦により、すべてが崩れ去った雰囲気の中で、新たな視点を示す。人間は無であるからこそ「未来を選ぶことができる」という。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

意識が「無」ってどういうこと?

『存在と無』、この表題の意味は、「物と意識」ということです。

 石ころなどの事物は、何も意識せずに、ただそれ自体においてあるだけの存在です(即自存在)

 それに対して人間は、「対自存在」です。人間は「意識」とともにある存在であり、また、自分自身を対象化してしまう存在でもあります(自分で自分を見つめてしまう……)。

 そうなると、人間は石ころのように気楽に存在するわけにはいきません。

 絶えず見る側と見られるものとして、意識に「裂け目」をつくりだすのです。

 意識としての人間は、世界の中の裂け目、世界の中の無です。

 というのは、「私が何かを意識するということは、それを私ではないものとして、同時に私をそれではないものとして意識している」(同書)からです。

「これはこれではない」が続きますので、意識は無をつくりだします(無化)

 また、人間が自分のうちに「裂け目」を含んでいる存在だとすると、「常に過去の自分から脱出し、新しい自分になっていく存在である」といえます。

 人間は、過去と現在とを乗り越え、未来に向かって自分を投げかけているのです(投企)

 人間は過去の自分から脱出し、新しい自分になっていく存在ですから、「世界への関わり方」を自ら選択し、自分自身をつくっていく存在であるといえます(脱自的存在)

 サルトルは、これを「自由」と呼びました。物は「自由」をもちませんが、人間は自らをつくりあげていく「自由」をもちます。

 ただ、自由であることをやめることはできず、「人間は自由の刑に処せられている」(『実存主義はヒューマニズムである』)とされます。

自由であるから不安を感じる

 人間が自由であるということは、同一の自分が維持されていないということです(対自存在なので、常に変わっていく存在であるということ)。

 だから、全部を背負っていかなければなりません。自分で自分の未来を選択していくので「不安」を感じます。

 そこで、人間は日常の中で「自由と不安」から目をそらしながら生きようとします(自己欺瞞)

 自己欺瞞に陥っている人間は、実は石ころのような即自存在になりたがっているのです(ああ、消えてしまいたい! みたいな感じ)。

 また、サルトルによると人間が規則に従うのは不安を隠しているためです。規則とは、実は、自分で意味づけをしているから制約の力をもっています。

 もし、規則を成り立たせているのは自分であるという本当のことを自覚すると不安が生じてしまいます(自分が責任を引き受けなければならない気分になるから)。

 そこで、人間は規則が外側に実在していて、自分が縛られていると思い込むことで安心をするのです(倫理的不安)

 さらに、サルトルは、哲学のテーマとして重要な他者問題についても語っています。

 他者に「まなざし」を向けられたとき、私は「まなざし」を向けてくる他者が対自存在であると感じます(他者も自由な意識をもった存在であると感じるということ)。

「地獄とは他人のことだ」(『出口なし』)

 だから私は、他者の視線にさらされて、思わず身が硬くなります。他者によってまなざされると、私は自由を失い、物としての「即自存在」になり変わってしまいます。

 自分が対象化されて物になってしまうからなのです(対他存在)。だから、「こっちも意識があるんだぜ」とまなざしを向け返さなければならないそうです。

 人間関係は、このように絶えず相互に「まなざし」を向け合う、自由な主体の「相剋」の状態です。

 これらの状況に対して、サルトルは、『実存主義はヒューマニズムである』『弁証法的理性批判Ⅰ』などでその実践法を展開しています。

人生で役に立つこと
人間は常に新しい自己へと向かっていく存在だ。自分で自分を作り上げていく存在なので、それは「無」であり「自由」である。自由でなくなることはできないという宿命のもとで前に進むしかない。