ゆかりがあれば「聖地」ってことに…早稲田大学も「聖地」?

 実はこの謎を読み解く鍵は、「早稲田大学」にある。何を隠そう、この大学の周辺も下関と同様に、「旧統一教会の聖地」だからだ。

『早稲田大の周辺、なぜ旧統一教会の「聖地」に?住民から困惑の声も(毎日新聞22年12月2日)』
 
 この記事は、早稲田大周辺で文鮮明教祖のゆかりの地を巡礼する世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者たちの映像がYouTubeで流れていることを報じたものだ。

 先ほど紹介したように、文鮮明氏は下関から日本に入った。そして、41年から43年にかけて早稲田大学付属早稲田高等工学校に留学していた。こういう経緯があるので、信者からすれば、早稲田大学周辺というのは、「真のお父様ゆかりの地」という認識だ。その中で、熱心な信者はツアーのように、その歴史的足跡をたどっているのだ。

 もちろん、教団はこのような「聖地巡礼」を信者に対して、オフィシャルに呼びかけているわけではない。しかし、毎日新聞がカギカッコ付きで「聖地」と報じているように、信者が聖なる場所だと考えているこことも事実だ。要するに、「みなし聖地」というか「准聖地」のような扱いなのだ。
 
 筆者は、下関もこれと同じだと考えている。それを示すのが、有田氏も引用している方相逸・神日本大陸会長の「山口の下関は聖地と同等の場所です」という発言だ。下関が紛れもない聖地ならば、「下関は聖地です」とスパッと断言すればいい。聞いているのはみな信者なのだから、誰かに気を使って、言葉を濁す理由もない。

 しかし、方相逸氏は「聖地と同等の場所です」と言っている。つまり、講演の最後で会場となった下関を持ち上げるというか、「聖地ではないけれど、聖地みたいにありがたい場所じゃないですか、ねえ、みなさん」とリップサービスをしたのではないか。

 つまり、下関は確かに「旧統一教会の聖地」ではあるのだが、一般の人が思い描くような信者がわんさか訪れて、信仰を強めていくというような「聖地」ではなく、「ゆかりの地」であって、一般人の我々が理解できるニュアンスとしては、先ほど申し上げたようなアニメやマンガの舞台をファンたちが「聖地」と呼ぶような感覚ではないのか。

「はい、出ました!名誉毀損!有田センセイ、このバカをさっさと訴えてください」という怒りの声が聞こえてきそうだが、筆者は「聖地」という言葉の「受け取る側の認識ギャップ」を指摘しただけで、有田氏や旧統一教会の専門家の皆さんのおっしゃることを批判も否定もするつもりは毛頭ない。

 しかも、「聖地」がどうかはさておき、有田氏が主張するように、旧統一教会にとって「下関」という土地が政治的に重要な場所であることは間違いない。有田氏らが選挙戦で訴えたように、安倍晋三元首相と、父・晋太郎氏の政治的地盤だからだ。