「当時は麺の配送とか掃除のアルバイトをしながら、月に20万ぐらいは稼いでいたんで、一応、親子3人で生活はできていたんです。でも、さすがに200万円は全然無理でしたね。そこで初めて親に無心しました。本来、うちの両親はものすごくケチなんです。でも、このときは何も言わずに貸してくれました」

 中野ブロードウェイが誕生して、すでに14年が経過していた。

 この頃になると、すでにこのビルの権利関係は複雑化していた。当初は「分譲のみ」で始まったものの、個々の物件がそれぞれ転売を繰り返しているうちにそれぞれの物件所有者がどんどん細分化していったのだ。

 さらに、各オーナーが新規出店者に賃貸することで、一括管理することは到底不可能となり、この時点ですでに収拾がつかない事態になっていた。そして、それが現在まで続く、後の混乱を生み出すことになるのだ。

 さて、まんだらけである。

 契約前に内覧に出かけた。学生時代に中野に住んでいたので、中野ブロードウェイには何度も訪れていた。しかし、自分が知るかつての賑わいはすでになかった。

「69年に上京してきたときは、僕は田舎から出てきていますから、ブロードウェイについて、“わぁ、すごいビルだな”って思っていましたね。でも、久しぶりに訪れてみると、僕が中野に住んでいた頃とは違っていて、凋落している雰囲気もありました」

 不動産屋に紹介された場所は2階の東通りの北側だった。現在のエレベーター通りを早稲田通り方面に進んだ奥まったところにある2・3坪の小さな間取りだ。

 中野ブロードウェイの中では決して有利な場所ではなかった。けれども、国電中央線快速を利用すれば、新宿からわずか1駅。中野駅からも徒歩数分だった。調布市国領の憂都離夜とは比べ物にならないほどの好立地であることは間違いない。

 親から借りた保証金の200万円を納めて、無事に契約を済ませた。新たな旅立ちを前に、屋号も改めた。

 もともと精神世界に関心を持っていた古川さんは、調布時代に図書館で「音占い」と出合った。「音占い」とは聞き慣れない占術であるが、音の響きによって運を招き入れる占断だという。自分で研究していた数占いと音占いを融合させた結果、「おまんだらけ」が最適であると考えた。しかし、古川さん曰く「この名前では、どうも関東圏では商売できないような気がした」ので、「まんだらけ」と名乗ることに決めた。