古川さんが驚いたのは全館冷暖房の空調設備が存在しなかったことだ。5階以上の居住エリアには全館コントロールによるファンコイルユニットを採用し、1年中快適な温度で生活できるようになっていた。

 しかし、地下1階から4階にかけての商業エリアには空調設備はなく、各店舗がそれぞれ自前で準備しなければならなかったのである。排気孔がないため、一般のエアコンを取りつけることはできない。そこで古川さんは据え置き式の冷風機を2台自前で用意した。店の入口に設置して稼働させると、わずか2坪の店内は一気に快適な温度になった。

 しかし冷風機の背面からは、代わりに温風が正面の店へ吹きつける。そこにあるのは高級ブティックの「成木屋」だった。

「でも、成木屋のご主人は何も言わずにそのまま見逃してくれました。このご主人には本当にお世話になりました。何かをしてもらったというわけじゃないけど、何もしてくれなかったからこそ、逆にありがたかったんです。それ以外の店からは本当にいろいろなバッシングを受けましたから。なにしろ汚い若造が入ってきたわけですからね(苦笑)」

 後に、ブロードウェイ内でバッグを中心に扱う「AOKI」の2代目となる青木武さんは、「リュックを背負った若者が何度も何度も階段を上っていく姿を目撃しました」と、この頃の古川さんのことを明確に記憶していた。

 当時、古川さんが背負っていたのは画家用のリュックだった。背中に折りたたみ椅子が付いていて、かなりの量を入れることができた。これを背負って神田の古書市場に向かい、大量の古本とともにほぼ毎日、このリュックを背負って1階から2階の階段を上った。

 それは、いくら凋落傾向にあったとはいえ、それまでの中野ブロードウェイでは見かけることのない風体だった。30年余りブロードウェイに住んだ経験があり、この頃、中学生、高校生だった熊倉規親さんは「親からはハッキリと“あまりあそこには行くな”って言われました」と述懐している。

 創業時から中野ブロードウェイを知る人たちにとって、まんだらけは、そして店主の古川さんは、あまりにも異質だったのであろう。