世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』を解説する。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

他者(他人)とはいったいなんだろう。他者の存在は私にとってはまったく捉えられない。私の中から私は出られないし、他者も入ってこられない。でも、今までの全体的な世界観を一度リセットして、現象学を応用すると驚くべき他者論が出現した。

他者がいるからこそ私がいる?

 これまた、この本の難解さは筆舌につくしがたいところがあります。

 テーマは「他者」と「顔」です。

「顔?」という段階で挫折すること請け合い。

 一口で表現すれば、「他者については絶対にわからない」「自分は他者によってつくられている」「他者に限りなく奉仕せよ」ということです。

「他人のことがわからないなんてあたりまえじゃないか。

 でも、なんとなく気持ちは伝わる」と誰でも思うのですが、現象学的には「他者は絶対的で超越的」な存在なのです。

 ユダヤ人哲学者のレヴィナスは、ナチスの捕虜収容所に捕らえられていて、家族はほぼ全員殺され、自分は生きのびたという経験をしました。

 だから、「他者」や「殺人」についての考え方がとてつもなく深いのです。

 なにしろ、強制収容所から帰還しても、すべては失われていたわけで、それでも世界は「存在」しているわけです。

 自分にとって何もない世界が「存在」しているというのは、そもそも「存在」そのものが無意味で恐ろしいことです。

 よってレヴィナスは、キリスト教的なオールインワンで世界を説明する方法を批判します。

 オールインワン、つまり「全体性」の中に人間は「ある」だけではないと考えます。

 難しいキーワードは「存在」(イリヤ(ilya))です。「イリヤ(ilya)」は私も他人もない状態(匿名性)で、とにかく「ただ存在する」というあり方です。

 闇のような「存在」が先にあり、そこに「私」が湧き出てくる感じです。

 だから、人は「私が存在している」というよりも「私は存在してしまった」「なんで私が存在しているんだ」という恐怖を感じるのです。

「顔」は「汝殺すことなかれ」と訴えてくる

「イリヤ(ilya)」から出現する「私」は、「絶対的に孤独」です。

 そんな孤独な「私」が「他者」と出会います。「他者」は「私」とは絶対的に交わることのない存在ですので「他者」の意識に入り込むことはできません。

 たとえば友人が「このラーメンは美味しい」とか「腹が痛い」とか言っても、その友人の内面的な経験を直接的に理解できるわけではなく、「私」の内部にその現象(自分だけのシアターのようなもの)が生じているだけです。

 つまり、「他者」はまったく理解不能(超越的)な存在なのです。

 そこで、登場するレヴィナスの用語が「顔」です。レヴィナスによると、他者と直面するということは、「顔」と直面するということです。

 このあたりは、大変に難解ですが、やっぱり他者と直面するとき、いきなり「手」「足」「腹」とかではないでしょう。人はまず「顔」と直面して、その背後に超越的な他者の存在を感じます。

「他者」は世界の中にいないのですが(世界を超えているところにいるから=超越的だから)、「顔」を通じて「他者」を知ることになります。

「顔」は「他者」の現れなので、何かを訴えかけてきており、「他者」が「私」をつくっているとされます。

「顔」に対面すると、「他者」がわかるのです。レヴィナスによると「『顔』とは、私に『無限』の責任を課す他者」です。

 さらに、「他者の存在そのものが倫理」です。「他者」は自分の思うようにならない存在ですが、これが勢い余って殺人へと発展します。殺すと「他者」は「他」ではなくなります。これが殺人です。

「顔」は「汝殺すことなかれ」というメッセージを持っています。

 よって、他者の無限の応答への責任を果たすことが倫理なのです。

 他者がいるから私がいる以上、「顔」に対面したらひたすら相手に何かを与え続けるしかありません。