企業経営へウェルビーイングを組み込むうえでの留意事項
ここまで、企業経営にウェルビーイングを組み込むための要諦およびアプローチについて説いてきたが、効果的な実行はそう簡単ではない。そこで最後に、三つの留意事項を付言したい。
一つ目は、ウェルビーイングを企業経営に組み込んだ結果としての「成功の定義づけ」である。業界・企業によってウェルビーイングがどれだけ経済価値・社会価値に寄与するかは多分に異なるので、その前提を踏まえ、自社として何を目指すか/期待するかの絵姿をラフにでも描き、企業全体として意思統一を図らなければ、取り組みが漠としたものとなってしまう。単に大々的に掲げたウェルビーイングは、砂上の楼閣のように見掛け倒しになってしまう恐れがある。
例えば、前述のようにウェルビーイング向上を通じた競争力の獲得や情報開示を通じた自社のブランド価値の向上、もしくは従業員のウェルビーイングを高めること自体が目的となる場合があるかもしれない。自社の状況に鑑みて、適切な「成功の定義づけ」を行うことが、ウェルビーイングを錦の御旗として扱ううえで重要だ。
二つ目は、「社内に潜む抵抗勢力への対応」である。幸せ・ウェルビーイングといった、ある種ビジネスにおいては新しい概念の取り込みに対して、否定的な抵抗勢力が生まれてしまうことは致し方ない。彼ら/彼女らの論理・感情の壁を乗り越えるためのチェンジマネジメントとしては、「スモールスタート、クイックウィンの創出」が必要となる。
例えば、従業員向けWXで考えてみると、取り組みに対する前向きさ、他組織への影響力等の観点で導入の優先順位付けを行い、パイロット的に始めることで、早期の成果創出(=クイックウィン)の実現可能性を高めることができる。始まりをピークとせず、心に宿った火をともし続けるためには、とにもかくにも、取り組みに意味があることを肌で感じてもらうことが必要なのだ。
三つ目は、「個人情報の取り扱い」である。近年のウェルビーイングのトレンド化は幸福学先行研究・調査の進展に加え、バイタルデータ等の各種データを取得・活用し、定量的な側面からもアプローチできるようになったことが一因だ。その結果、ウェルビーイング関連の施策では個人情報が不可欠となり、当然のことながら、その取り扱いには細心の注意が必要になるのだ。
今後、従業員や消費者、自治体の住民などのウェルビーイング向上を目的に各者がエコシステムを構築・連携することも想定されるが、その場合、さまざまなステークホルダーが関与することになり、第三者提供等を通じて、自社で入手した顧客データであるファーストパーティー以外のデータを取得する・扱うことは容易に想像できる。
近年は米国のカリフォルニア州消費者プライバシー法(CCPA)や日本の改正個人情報保護法など、個人のプライバシーの権利の保護と確立を目的とするような法律・規制が多数施行されている。EU一般データ保護規則(GDPR)に抵触し制裁金を科されたり、データ取得の方法など従来とは異なるやり方を強いられたりするケースも出てきている。また、直近では生成AIの学習データに一部の個人情報が含まれていることに対し、規制措置を講じる動きも出始めている。
このように個人情報の取り扱いは業務遂行上の落とし穴になる可能性が十分にあるため、各種対策により自らの提供サービスのデータ取り扱い状況を正確に把握して、各規制に対応することが重要になる。
以上、ウェルビーイングを経営に組み込むための五つの要諦およびそれらを踏まえたコンセプト/アプローチであるWX、その効果的な実行のための留意事項を論じてきたが、その重要性を理解いただけただろうか。
繰り返しになるが五つの要諦や各WXの取り組み方に順序性はなく、自社の置かれている状況や保持しているケイパビリティ等に鑑みて、とっつきやすいものから始めることが重要だ。ウェルビーイングは間違いなく競争優位につながり、各社の企業経営を力強くドライブする要素になりうると確信しているが、前述した留意事項をはじめとした落とし穴には十分注意しつつ、“慎重かつ大胆に”取り組んでもらいたい。
PwCコンサルティング合同会社 Strategy& ディレクター。消費財をはじめとする幅広い業界に対するビジョン策定、全社/事業戦略、顧客戦略/マーケティング/ブランディング、新規事業開発、組織変革等の戦略コンサルティングを手掛ける。また、ウェルビーイングを起点とした経営をテーマにして、アカデミア等との連携を踏まえて、書籍、寄稿、登壇、動画出演等による多数の情報発信や調査、関連プロジェクトを行う。ベネッセコーポレーションにてマーケティング・編集業務、ボストン コンサルティング グループ(BCG)、アクセンチュアにてコンサルティング業務を経験し、現職。京都大学理学部卒、香港科技大学経営学修士(MBA)。
PwCコンサルティング合同会社 シニアアソシエイト 大手自動車会社、日系コンサルティングファームを経てPwCコンサルティングに入社。消費財・小売業界をはじめとした幅広い業界に対する全社戦略や営業戦略、業務改革(BPR)を中心としたテーマでのコンサルティング実績を有する。現在は幸福度イニシアチブのコアメンバーとして、ウェルビーイングトランスフォーメーション(WX)や従業員向け幸福度マーケティングの推進、消費者調査等に従事。京都大学法学部卒。