世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を解説する。
世界はまず「私」の表象として始まる。その表象の奥には何かが存在するが、それについて「私」は知ることができない。ただ一つ、「私」の内側には「意志」というリアル感があることだけはわかる。となると世界の原理は「意志」なのでは……?
理性もいいけど「欲望」のパワーを忘れないで!
本書は、「世界は私の表象である」の一節から始まります。この一節をわかりやすく言い換えるなら、世界を自分だけのシアターのように見るということかもしれません。
この「自分シアター」をよく観察すると、そこには主観と客観というちゃんとした区切りがあるとショーペンハウアーは考えました。
主観は世界の担い手で、あらゆる現象の前提とされる根本的な場です。「すべてを認識し、いかなるものによっても認識されないものが『私』という主観」です。「主観は決して客観とはなりえないもの」と定義されています。
こうした主観から世界をとらえる哲学説は観念論と呼ばれます。さらに、ショーペンハウアーは、主観が「身体によって媒介されている」と説きます。
身体は認識の主観に二重の仕方で与えられます。自分の身体は内面と外面の両方で認識されるからです。
たとえば客観的な物体としてのマグカップの内面について、私たちは直接的に知ることはできません(自分がマグカップという物体の立場になることは無理)。これはあらゆる物体に対して言えることです。
しかしただ一つ、例外の物体があります。それは自分の身体です。身体という物体(客観的対象)なら自分で手や足など外側からも見えますし、同時に内側から観察される感覚や欲望(全部まとめて意志と表現されます)も直接的に知ることができます。
つまり、身体だけは、2つのまったく異なる仕方(主観と客観)で観察できる同一物なのです。
この世界は限りない苦しみそのもの
ショーペンハウアーはこの内側から捉えられる主観的な力を「意志」と呼んでいます。見たいという意志は「目」、聞きたいという意志は「耳」、食べたいという意志は「口」、つかみたいという意志は「手」という形で、現象化していることがわかります。
けれどもこの「意志」は理性を欠いた「生きんとする盲目的意志」です。ひたすら「あれがほしい、これがほしい」ときりがありません。
『意志と表象としての世界』では、あらゆる植物や動物がこのような意志をもっていることが記述されています(無機物までも意志的な動きをします)。
そして、残念ながら、意志はどんなに努力しても何らかの目的を達成することはないのです。というのは意志は絶えることのない永続的な力として現れるからです(例:満腹になっても、またお腹が空いて食べたくなるから終わりがない)。
ところが、この現象世界は時間と空間という形式や様々な因果律によって規定されて認識されます。この有限な世界において、無限の意志は、抑え込まれるしかありません。
だから、この書では「生きることは苦悩」であり、「この世界は最悪の世界」ということになります。
人は努力しても必ずそれを阻まれていつも悩むことになりますが、それはその人が悪いのではなく、世界の根本的構造が悪いのだからどうしようもないわけです。
意志は無限に欲し、世界は有限であることから、常に戦争が起こります。この世界の仕組みの上から、殺戮や戦争がなくなることは永遠にありえないと説かれます。
この人生の苦しみからの脱出方法としては、芸術などがすすめられますが、これは鎮静剤としての効果しかなく、根本的な解決にはなりません。
そこで、この書の結論としては、他人の苦しみを共有する「同苦(どうく)」(同情)をもちつつ苦しみの痛み止めとして、「意志」そのものを滅却させ、苦しみの根本的原因を取り除くのです。
それは、ひたすら「禁欲」をすることによって意志の滅却化を図るという方法です。あまり実践的ではありませんが、この書は、なぜか人生の苦しみを和らげる効果があります。
富増章成(とます・あきなり)
河合塾やその他大手予備校で「日本史」「倫理」「現代社会」などを担当。
中央大学文学部哲学科卒業後、上智大学神学部に学ぶ。
歴史をはじめ、哲学や宗教などのわかりにくい部分を読者の実感に寄り添った、身近な視点で解きほぐすことで定評がある。
フジテレビ系列にて深夜放送された伝説的知的エンターテイメント番組『お厚いのが、お好き?』監修。
著書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)、『日本史《伝説》になった100人』(王様文庫(三笠書房))、『図解でわかる! ニーチェの考え方』、『図解 世界一わかりやすい キリスト教』『誰でも簡単に幸せを感じる方法は アランの『幸福論』に書いてあった』(以上、KADOKAWA)、『超訳 哲学者図鑑』(かんき出版)、『オッサンになる人ならない人』(PHP研究所)、『哲学の小径―世界は謎に満ちている!』(講談社)、『空想哲学読本』(宝島社文庫)など多数。
【著者からのメッセージ】
私たちはなぜ本を読むのでしょうか。それは「本は人類が積み上げてきた叡智のアーカイヴだから」です。本は、人に知識や喜怒哀楽すべての豊かな経験を与えてくれる存在です。ときに読んだ人の人生を変えてしまう本だってあるでしょう。
この本で紹介しているのは、本のなかでも特に多くの人に読み継がれていたり、あるいは数千年という時を経ても今なお読まれている本、つまり「名著」です。
「名著」にはそう呼ばれるだけの理由があります。たとえば多くの人が今悩んでいることのほとんどは、この長い歴史上で誰かがすでに徹底的に考えていることです。紀元前という昔に遡っても、人間はやはり人間なのです。だから、もしあなたに悩みや、疑問に感じていることがあるなら、それらの答えのヒントはほぼ「名著」のなかにあるのです。
「目標がないし、やる気も出ない」「思考が乱れて集中できない」「健康なのに、なぜか疲れを感じる」「勉強したいが、どこから何をしたらいいのかわからない」「働いても働いても、楽にならないのはなんでだろう」「歳をとってきて、だんだん楽しみが減ってきた」
そんな悩みは、この本で紹介する「名著」のエッセンスを手に入れればたちまち解決するはずです。自分で思い悩むよりずっと気分が晴れること、請け合いです。
ところで、「名著」の多くは、とても難解で、それでいて分厚いものが多いです。しかし、名著が難解なのには、実は理由があります。分厚い古典的「名著」は、その時代背景と常識を前提として書かれているので、多くの場合、現代の私たちにとっては説明不足なのです。また、その学問世界の専門用語を「知ってるんでしょ?」という前提のもとに書かれていますから、こっちはわかるわけがない。
「名著」は、下手をすると一冊をしっかりと理解するのに20年以上かかります(それでも、さらに疑問は増えていきます)。普通に生きて普通に暮らしている私たちには、そんな時間はありません。つまり、「名著」とは基本的に「読破することができない本」なのです。
人生は短い。だからこそ「名著」をまず、おおざっぱに理解して、興味が出たら原典にあたればよいのです。この本では、古今東西の「名著」のうち哲学から心理学、経済学まで選りすぐった60冊のエッセンスをイラストとともにわかりやすく解説していきます。
※収録した60冊は、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『方法序説』(デカルト)、『実践理性批判』(カント)、『現象学の理念』(フッサール)、『歴史哲学講義』(フッサール)、『ツァラトゥストラはこう言った』(ニーチェ)、『存在と時間』(ハイデガー)、『存在と無』(サルトル)、『自由からの逃走』(フロム)、『社会契約論』(ルソー)、『資本論』(マルクス)、『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)、『グーテンベルクの銀河系』(マクルーハン)、『ポストモダンの条件』(リオタール)、『複製技術時代の芸術』(ベンヤミン)、『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ&ガタリ)、『21世紀の資本』(ピケティ)など。
もちろん原典と比べてその情報量は雲泥の差です(本書の場合、500ページ以上ある本も見開き4ページにまとめているのだから)。でも、なんにも読まないよりずっといいでしょう? そう思いませんか。分厚い本を一冊買って、読まないで部屋に飾っておくより、本書を電車の中で読んだほうがよいのではないでしょうか。
必ずしも時代順になっていないので、どこから読んでもOKです。パラッとめくって、全体を眺め、どんなふうに自分の役に立ちそうかを考えます。それぞれの本は、関連を他のページとリンクしてあります。つながりの意味については、本書の冒頭に収録した「ひと目でわかる名著の関連図」を参照してください。
ぜひ本書を活用して、自由な思考法を手に入れて、人生の難問解決をはかり、明日に向かって進んでください。きっと、すばらしい未来が広がっていくことでしょう。