世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を解説する。

世界はまず「私」の表象として始まる。その表象の奥には何かが存在するが、それについて「私」は知ることができない。ただ一つ、「私」の内側には「意志」というリアル感があることだけはわかる。となると世界の原理は「意志」なのでは……?

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

理性もいいけど「欲望」のパワーを忘れないで!

 本書は、「世界は私の表象である」の一節から始まります。この一節をわかりやすく言い換えるなら、世界を自分だけのシアターのように見るということかもしれません。

 この「自分シアター」をよく観察すると、そこには主観と客観というちゃんとした区切りがあるとショーペンハウアーは考えました。

 主観は世界の担い手で、あらゆる現象の前提とされる根本的な場です。「すべてを認識し、いかなるものによっても認識されないものが『私』という主観」です。「主観は決して客観とはなりえないもの」と定義されています。

 こうした主観から世界をとらえる哲学説は観念論と呼ばれます。さらに、ショーペンハウアーは、主観が「身体によって媒介されている」と説きます。

 身体は認識の主観に二重の仕方で与えられます。自分の身体は内面と外面の両方で認識されるからです。

 たとえば客観的な物体としてのマグカップの内面について、私たちは直接的に知ることはできません(自分がマグカップという物体の立場になることは無理)。これはあらゆる物体に対して言えることです。

 しかしただ一つ、例外の物体があります。それは自分の身体です。身体という物体(客観的対象)なら自分で手や足など外側からも見えますし、同時に内側から観察される感覚や欲望(全部まとめて意志と表現されます)も直接的に知ることができます。

 つまり、身体だけは、2つのまったく異なる仕方(主観と客観)で観察できる同一物なのです。

この世界は限りない苦しみそのもの

 ショーペンハウアーはこの内側から捉えられる主観的な力を「意志」と呼んでいます。見たいという意志は「目」、聞きたいという意志は「耳」、食べたいという意志は「口」、つかみたいという意志は「手」という形で、現象化していることがわかります。

 けれどもこの「意志」は理性を欠いた「生きんとする盲目的意志」です。ひたすら「あれがほしい、これがほしい」ときりがありません。

『意志と表象としての世界』では、あらゆる植物や動物がこのような意志をもっていることが記述されています(無機物までも意志的な動きをします)。

 そして、残念ながら、意志はどんなに努力しても何らかの目的を達成することはないのです。というのは意志は絶えることのない永続的な力として現れるからです(例:満腹になっても、またお腹が空いて食べたくなるから終わりがない)。

 ところが、この現象世界は時間と空間という形式や様々な因果律によって規定されて認識されます。この有限な世界において、無限の意志は、抑え込まれるしかありません。

 だから、この書では「生きることは苦悩」であり、「この世界は最悪の世界」ということになります。

 人は努力しても必ずそれを阻まれていつも悩むことになりますが、それはその人が悪いのではなく、世界の根本的構造が悪いのだからどうしようもないわけです。

 意志は無限に欲し、世界は有限であることから、常に戦争が起こります。この世界の仕組みの上から、殺戮や戦争がなくなることは永遠にありえないと説かれます。

 この人生の苦しみからの脱出方法としては、芸術などがすすめられますが、これは鎮静剤としての効果しかなく、根本的な解決にはなりません。

 そこで、この書の結論としては、他人の苦しみを共有する「同苦(どうく)」(同情)をもちつつ苦しみの痛み止めとして、「意志」そのものを滅却させ、苦しみの根本的原因を取り除くのです。

 それは、ひたすら「禁欲」をすることによって意志の滅却化を図るという方法です。あまり実践的ではありませんが、この書は、なぜか人生の苦しみを和らげる効果があります。