これまでに映画に漂ってきた“平成感”と
どう向き合っていくかの正念場

「貧乏で悲哀まみれ」の含みを持って扱われてきた「平凡なサラリーマンパパ」というこれまでのひろしの立ち位置が、いつの間にか令和ではむしろ「いろいろ持っていて充足している」とみなされるようになっている。それはお分かりいただけるかと思う。

 その上、新作映画のストーリーの構造上、ひろしがもはや「持たざる者」側に属さない登場人物の配置となっていた。つまりひろしは「持っている者」ポジションからの発言をすることとなって、さらに共感が得られにくくなっていたのである。

※以下の一段落は、若干のネタバレを含むため、ネタバレを徹底的に避けたい人は飛ばして読み進められたい

 今回の新作映画に登場する、不遇な独身の男性にひろしがエールを送るのだが、その男性に比べてひろしは仕事も家も子どもも持つ、世間的にいう“勝ち組”であるため、「さらに持たざる者:社会的弱者」に向けられたエールが「強者→弱者」の構図を際立たせて、今回のひろしへの疑問の声につながっているようである。

 時代の価値観の変化によって“勝ち組”に分類されることも出てきた野原ひろしは、今後共感を得るメッセージを発信しようとするなら、よほど注意しなければならない。なぜなら強者から弱者へのメッセージは、慎重にやらないと、受けてはそこにデリカシーを欠いた傲慢(ごうまん)さを見いだしうるからである。

 しかし、意外な展開である。

 国民的アニメの中でもしんちゃんは「子どもに見せたくないアニメ」ランキングの類いの常連ランカーで、保守的なサザエさんなどに比べてすごくとがっていて、その分新しい印象があった。

 だが、かつての「平均的なサラリーマン」が現在「稼いでいる勝ち組」とみなされることが増えた昨今の世相では、野原ひろしが立脚する「平成の庶民」というポジションが「令和の庶民」からしたらあまり庶民らしく感じられない。そして『クレしん』映画が真っ向から取り扱う“家族愛”が、世の中の価値観の変化によって普遍性を薄れさせ始めている。この二つを主な原因として、『クレしん』が「国民的アニメ映画シリーズ」のカテゴリーから脱落するおそれすら見えてきたのである。

 とはいえ、まだ分からない。新作映画でも“家族愛”にもっとも焦点が置かれていたわけではなかった。

 筆者は子どもたちと見に行ったので、彼らの前で今見たばかりの映画を否定したくはなく、ストーリー展開に違和感を覚えた箇所がいくつかあったが、「子ども向けのギャグアニメだし」と考えて、おおむね楽しく見終えた。

 しかしよく考えれば、やはり瑕疵(かし)あるストーリー展開と言え、その隙が今SNSなどでささやかれている「ひろし不信」を招いているのかもしれない。だとすれば、次作ではストーリーの不完全さを改善して、時代に合った形でのひろしを再提示してくれるかもしれない期待も残るわけである。どちらにせよ、ここ2、3年が『しんちゃん』映画にとっての正念場になることには間違いない。

 なお、純粋な映画の感想としては、「とても楽しめた」である。3Dになった春日部市の質感は現実味があってワクワクした。3Dになったからこそ従来のギャグ描写がややリアルで、あまりギャグに見えなくなった部分もあったが、客席は何度も子どもたちの爆笑に包まれた。子連れでの鑑賞を勧めたい作品である。