世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、フッサールの『現象学の理念』を解説する。

真理とはなんなのか? それは主観が客観を正しく言い当てることだ。しかし、主観が「自分が正しく言い当てている」ということをどうやって自分で確認できるのだろう。私たちの生活は勘違いの連続。その中に絶対に正しいことがあるのだろうか。現象学ならそれがわかるのだ。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

外界が実在することはなぜわかるのか?

 映画『マトリックス』では、バーチャル世界が表現されていました。哲学の世界では、私たちの世界がバーチャルではないという証明を追求する分野があるのです(対象の実在性の追求をする分野=認識論や存在論など)。

「身の回りにあるコップや机などの事物は、本当に存在しているのか、夢や幻覚ではないのかを証明せよ」という問いに対してどうこたえればよいでしょう(観念論か唯物論か)。

 フッサールの哲学は、これらの哲学とは異なったアプローチをするのです。普通は、誰でも世界や事物が外界にありのままに存在していると思っています。これを「自然的態度」といいます。

 目の前にコップや机がありのままに自分から離れて存在し、自分はそれをビデオで撮影しているような素朴な態度です。

 しかし、この客観(対象)と主観(認識する私)という図式では、「自分の認識と世界のあり方がずれているかもしれない」という疑問が生じます(勘違いが生じるということ)。

 そこで、フッサールは、外にありのままに世界があるのかについて、とりあえずエポケー(判断中止)すればよいと考えました。

 つまり、私たちが日常「そこにありのままに実在する」と確信していることを、単なる思いこみかもしれないと疑って、念のためいったん「括弧に入れる」のです。

「目の前にコップが、そのままありのままに外部に存在する」とは考えず、これは本物なのか夢幻なのかわからないが、とりあえずボケーッと見て、ただひたすら意識の流れの方を観察するのです。

自分の心にインタビューする哲学

 たとえば、「信号が青かと思ったら赤だった」という場合、「青」という判断と「赤」という事実が勘違いでズレていたわけです。

 でも、エポケーすれば、「青」「赤」と意識が流れていったそのことそのものは絶対に正しいのです(勘違いというリアル体験のようなもの)。

 こうして、主観が客観に的中しているかはさておいて、意識の上に流れたことだけを観察します。そうすれば、その内容は絶対に間違っていないことになります。

 フッサールはここから厳密な学問が体系づけられると考えました。このような意識の操作を「現象学的還元」といいます。

「私の体験だけが、これらの思考作用があるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在していることを、すなわち一般に認識に対立する客観として措定されるであろう何かが存在していることを、認識者たる私はいったいどこから知るのであろうか、またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろう?」(同書)。

 このような問を発したフッサールは、物質的世界から意識の世界へと舞台の変更を行いました。

 そうすると、私たちの意識の上に現れてくることに、意味を与えるという作用が働いていることがわかったのです(ノエス・ノエマの相関関係)。

 フッサールは、思考する作用を「ノエシス」、「ペン、机、コップ、ノート」などの対象を「ノエマ」と名づけました。

 私たちは心の内側から意味づけして、事物のリアリティを確信していたのです。

 現象学をはじめれば、目に映るもの聞こえるものがすべて哲学の対象となります。まさに、自分の心にインタビューをする哲学なのです。

 ただ、フッサールの現象学は他者問題をうまく解決することができませんでした。他者が目の前にいても、それが「エポケー」されると自分の意識に取り込まれてしまうので、他者がロボット的になってしまうのです。

 この問題については、ハイデガー、メルロ・ポンティ、レヴィナスらによって現象学的なアプローチがなされています。