世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、フッサールの『現象学の理念』を解説する。
真理とはなんなのか? それは主観が客観を正しく言い当てることだ。しかし、主観が「自分が正しく言い当てている」ということをどうやって自分で確認できるのだろう。私たちの生活は勘違いの連続。その中に絶対に正しいことがあるのだろうか。現象学ならそれがわかるのだ。
外界が実在することはなぜわかるのか?
映画『マトリックス』では、バーチャル世界が表現されていました。哲学の世界では、私たちの世界がバーチャルではないという証明を追求する分野があるのです(対象の実在性の追求をする分野=認識論や存在論など)。
「身の回りにあるコップや机などの事物は、本当に存在しているのか、夢や幻覚ではないのかを証明せよ」という問いに対してどうこたえればよいでしょう(観念論か唯物論か)。
フッサールの哲学は、これらの哲学とは異なったアプローチをするのです。普通は、誰でも世界や事物が外界にありのままに存在していると思っています。これを「自然的態度」といいます。
目の前にコップや机がありのままに自分から離れて存在し、自分はそれをビデオで撮影しているような素朴な態度です。
しかし、この客観(対象)と主観(認識する私)という図式では、「自分の認識と世界のあり方がずれているかもしれない」という疑問が生じます(勘違いが生じるということ)。
そこで、フッサールは、外にありのままに世界があるのかについて、とりあえずエポケー(判断中止)すればよいと考えました。
つまり、私たちが日常「そこにありのままに実在する」と確信していることを、単なる思いこみかもしれないと疑って、念のためいったん「括弧に入れる」のです。
「目の前にコップが、そのままありのままに外部に存在する」とは考えず、これは本物なのか夢幻なのかわからないが、とりあえずボケーッと見て、ただひたすら意識の流れの方を観察するのです。
自分の心にインタビューする哲学
たとえば、「信号が青かと思ったら赤だった」という場合、「青」という判断と「赤」という事実が勘違いでズレていたわけです。
でも、エポケーすれば、「青」「赤」と意識が流れていったそのことそのものは絶対に正しいのです(勘違いというリアル体験のようなもの)。
こうして、主観が客観に的中しているかはさておいて、意識の上に流れたことだけを観察します。そうすれば、その内容は絶対に間違っていないことになります。
フッサールはここから厳密な学問が体系づけられると考えました。このような意識の操作を「現象学的還元」といいます。
「私の体験だけが、これらの思考作用があるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在していることを、すなわち一般に認識に対立する客観として措定されるであろう何かが存在していることを、認識者たる私はいったいどこから知るのであろうか、またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろう?」(同書)。
このような問を発したフッサールは、物質的世界から意識の世界へと舞台の変更を行いました。
そうすると、私たちの意識の上に現れてくることに、意味を与えるという作用が働いていることがわかったのです(ノエス・ノエマの相関関係)。
フッサールは、思考する作用を「ノエシス」、「ペン、机、コップ、ノート」などの対象を「ノエマ」と名づけました。
私たちは心の内側から意味づけして、事物のリアリティを確信していたのです。
現象学をはじめれば、目に映るもの聞こえるものがすべて哲学の対象となります。まさに、自分の心にインタビューをする哲学なのです。
ただ、フッサールの現象学は他者問題をうまく解決することができませんでした。他者が目の前にいても、それが「エポケー」されると自分の意識に取り込まれてしまうので、他者がロボット的になってしまうのです。
この問題については、ハイデガー、メルロ・ポンティ、レヴィナスらによって現象学的なアプローチがなされています。
富増章成(とます・あきなり)
河合塾やその他大手予備校で「日本史」「倫理」「現代社会」などを担当。
中央大学文学部哲学科卒業後、上智大学神学部に学ぶ。
歴史をはじめ、哲学や宗教などのわかりにくい部分を読者の実感に寄り添った、身近な視点で解きほぐすことで定評がある。
フジテレビ系列にて深夜放送された伝説的知的エンターテイメント番組『お厚いのが、お好き?』監修。
著書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)、『日本史《伝説》になった100人』(王様文庫(三笠書房))、『図解でわかる! ニーチェの考え方』、『図解 世界一わかりやすい キリスト教』『誰でも簡単に幸せを感じる方法は アランの『幸福論』に書いてあった』(以上、KADOKAWA)、『超訳 哲学者図鑑』(かんき出版)、『オッサンになる人ならない人』(PHP研究所)、『哲学の小径―世界は謎に満ちている!』(講談社)、『空想哲学読本』(宝島社文庫)など多数。
【著者からのメッセージ】
私たちはなぜ本を読むのでしょうか。それは「本は人類が積み上げてきた叡智のアーカイヴだから」です。本は、人に知識や喜怒哀楽すべての豊かな経験を与えてくれる存在です。ときに読んだ人の人生を変えてしまう本だってあるでしょう。
この本で紹介しているのは、本のなかでも特に多くの人に読み継がれていたり、あるいは数千年という時を経ても今なお読まれている本、つまり「名著」です。
「名著」にはそう呼ばれるだけの理由があります。たとえば多くの人が今悩んでいることのほとんどは、この長い歴史上で誰かがすでに徹底的に考えていることです。紀元前という昔に遡っても、人間はやはり人間なのです。だから、もしあなたに悩みや、疑問に感じていることがあるなら、それらの答えのヒントはほぼ「名著」のなかにあるのです。
「目標がないし、やる気も出ない」「思考が乱れて集中できない」「健康なのに、なぜか疲れを感じる」「勉強したいが、どこから何をしたらいいのかわからない」「働いても働いても、楽にならないのはなんでだろう」「歳をとってきて、だんだん楽しみが減ってきた」
そんな悩みは、この本で紹介する「名著」のエッセンスを手に入れればたちまち解決するはずです。自分で思い悩むよりずっと気分が晴れること、請け合いです。
ところで、「名著」の多くは、とても難解で、それでいて分厚いものが多いです。しかし、名著が難解なのには、実は理由があります。分厚い古典的「名著」は、その時代背景と常識を前提として書かれているので、多くの場合、現代の私たちにとっては説明不足なのです。また、その学問世界の専門用語を「知ってるんでしょ?」という前提のもとに書かれていますから、こっちはわかるわけがない。
「名著」は、下手をすると一冊をしっかりと理解するのに20年以上かかります(それでも、さらに疑問は増えていきます)。普通に生きて普通に暮らしている私たちには、そんな時間はありません。つまり、「名著」とは基本的に「読破することができない本」なのです。
人生は短い。だからこそ「名著」をまず、おおざっぱに理解して、興味が出たら原典にあたればよいのです。この本では、古今東西の「名著」のうち哲学から心理学、経済学まで選りすぐった60冊のエッセンスをイラストとともにわかりやすく解説していきます。
※収録した60冊は、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『方法序説』(デカルト)、『実践理性批判』(カント)、『現象学の理念』(フッサール)、『歴史哲学講義』(フッサール)、『ツァラトゥストラはこう言った』(ニーチェ)、『存在と時間』(ハイデガー)、『存在と無』(サルトル)、『自由からの逃走』(フロム)、『社会契約論』(ルソー)、『資本論』(マルクス)、『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)、『グーテンベルクの銀河系』(マクルーハン)、『ポストモダンの条件』(リオタール)、『複製技術時代の芸術』(ベンヤミン)、『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ&ガタリ)、『21世紀の資本』(ピケティ)など。
もちろん原典と比べてその情報量は雲泥の差です(本書の場合、500ページ以上ある本も見開き4ページにまとめているのだから)。でも、なんにも読まないよりずっといいでしょう? そう思いませんか。分厚い本を一冊買って、読まないで部屋に飾っておくより、本書を電車の中で読んだほうがよいのではないでしょうか。
必ずしも時代順になっていないので、どこから読んでもOKです。パラッとめくって、全体を眺め、どんなふうに自分の役に立ちそうかを考えます。それぞれの本は、関連を他のページとリンクしてあります。つながりの意味については、本書の冒頭に収録した「ひと目でわかる名著の関連図」を参照してください。
ぜひ本書を活用して、自由な思考法を手に入れて、人生の難問解決をはかり、明日に向かって進んでください。きっと、すばらしい未来が広がっていくことでしょう。