「被災地に略奪はない」報道が切り捨てた事実
開沼 実際に行ってみてどうでしたか?
初沢 それは、解放されてワーと喜んでましたよ。そこから数ヵ月後ですね、「アメリカ出てけー」ってなるのは。
開沼 解放のカタルシスの熱狂が冷めてみたら、米国がこれまでと違うものを築きあげようとし始めていたわけですね。しかし、その時のイラクには報道カメラマンも結構行ってたんじゃないですか?
初沢 僕が帰って来たのは開戦の3週間前で、その後ですね。「人間の盾」が入っていったのと同じ位です。この日がXデーだと決まってから報道の人たちも入っていったと思います。パレスチナホテルで、川の向こうの宮殿が爆撃された映像もありましたね。
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
開沼 なるほど。そういう映像と、写真家としての亜利さんの仕事は何が違うんですか。自分の中でどう位置付けてます?
初沢 カメラマンである前に、いち市民として、その国を旅行した時の感覚なんかを大事に写真を撮ったほうがいいんじゃないかと。「この国はこういう国だから、こういう風に撮らなければいけない」。そういう気持ちにどうしてなるのかわかりません。
開沼 まったく同感、わからないですね。わからないけど、どうしても「これはこう撮るべき」という事前に決まったお約束に従って撮られてしまう。世に出回っている被災地の写真だって、途中から「これは完全にお約束の絵を作りにいってるな」というものも増えてきた記憶があります。そうしないと商品価値を持たないという単純な話なんでしょうけど、それはどうすれば乗り越えられるんですかね?
初沢 重要なのは撮影行為が自発的であるかどうかです。そこに表現者かどうかの根本的な違いがあります。撮ってしっくりこなければ出さなきゃいい。新聞社のカメラマンが抱えている、いわゆる社内的な責任みたいなものが一切ないわけです。どこまで感じたままに撮れるか、だけが自分としての勝負になる。
でもこれって案外簡単じゃないんですよね。僕が被災地に入ったのは震災翌日でした。最初に入ったのは宮城県の名取です。新聞社のカメラマンも同じタイミングで入っていて、みんな翌日の朝刊の一面を争っているんですね。「何を撮りたいか」ではなく、「何が使われるか」を考えながらシャッターを切っている。僕の場合は、誰かに行けとも言われていないので、目の前の現実と自分との間に折り合いがつくかどうかでカメラを構えればいい。
でも、実際は何を撮っていいのかわからなかった。あそこまで悲惨だと、悲しみというのが湧いてこない。感情が反応しようがないというか。何を感じて、どこでシャッターを押せばいいのかもわからないんです。瓦礫で埋め尽くされた荒野を何時間も歩きながら、静けさだけを噛み締めていました。風の音しか聞こえてこない。ある意味で穏やかな時間でしたが、あちらこちらに遺体が横たわっている。不思議な感覚でした。
当時の写真を見ると、ある種の美意識や世界観が無意識のなかで映し込まれています。結構きれいな写真を撮っちゃっているんですよ。写真を確認するたびに、戸惑いが深まっていきました。同時に、カップラーメンの倉庫から、みんながうわぁーとカップラーメンを盗んでいく写真も撮ったりしました。震災直後で「略奪はなかった」という話になっているので、この辺は切り捨てられるんですよ。報道に切り捨てられるものも含めて、1つひとつ押さえていきました。
開沼 みんなが示し合わせたように、略奪の事実を外に出さないようにした。これは必ずしも、トップダウンの情報統制のようなものだけでは説明できないと思うんですね。つまり、自主規制的なところで動いた。その意思決定の背景にはどんな構造があると思いますか?
初沢 う~ん、最初の頃は、被害状況が先だというのがありました。それを見た人たちが、「これは大変だ、何か物資を持っていかなければ」という気持ちにさせるような報道に終始したと思います。それはそれで全然間違ったことではないんですけど、それがだんだん、2ヵ月、3ヵ月で「希望」の発信に変わっていきました。
メディアへの疑問から1年間の滞在を決意
初沢 あぜんとしたことがあります。震災4日目くらいで、仙台駅前の東横インがやっとオープンしたころです。テレビ局のスタッフがロビーで打ち合わせをしていて、ちょっと年配のディレクターが、「阪神大震災の経験からすると、何日目がこんな感じで、1ヵ月目がこんな感じ。だからこういう情報を集めてこい」と大きな声で指示していました。非常に腹立たしかったね。マスメディアはストーリーを最初に作ってそこに当てはめていくと聞いてはいたけど、打ち合わせ現場を目の当たりにすると、ずいぶんと問題が多いなと。
だからこそ、1年位はどういう風に人間の心理が変わったのかを見たほうがいいかなと思いました。でもそうすると、単に対象としての被災地にシャッターを向けていくことから、だんだん知人が増えていって、片足くらいは向こうに入ってくる。同化することはできないし、同化するわけにもいかない。外から見ているのと、内から見ているのと、ちょうど曖昧な境界を漂っているような感じです。
開沼 どういう接触をして、どういう位置付けで関わっていったんですか?
初沢 スナックで出会った居酒屋を経営しているおっちゃんと仲良くなったり、写真をFacebookに時々公開していたら、写真の専門学校を卒業した気仙沼の人から、「いつも写真を見ています。ぜひお会いしましょう」とメッセージを送ってくれて、「案内してくれませんか?」と言ったら「ぜひ」となったり。でも、5月、6月、7月位は何も変わらないんです。雑草が生えて、瓦礫が撤去されてはいるけど、相当骨が折れる作業でした。ちょうどその時に開沼さんとお会いしました。
開沼 それから福島にも来るようになったんですよね。
初沢 そう。20キロ圏内の検問近くにあるホテルは今も行っていますか?
開沼 最近は行ってないですね。近くにある火力発電所などの復旧工事関係者が、2012年春から1年ぐらい借りきっているから泊まれないと聞きました。警戒区域のラインにある赤いランプが見えたんですよね、入り口から。
初沢 福島には結局2回。あとは宮城県、気仙沼を中心に見ていました。