人体で「もっとも汚いエリア」

 咬傷を受けた本人(暴力を振るった側の人)はその経緯を隠し、「転んで怪我をした」といった虚偽の理由を話すことが多いが、私たち医師はこれが「咬傷なのか、その他の外傷なのか」を正確に見抜かなければならない。なぜなら、傷の感染リスクが全く異なるからだ。

 口の中は、人体で「もっとも汚いエリア」の一つである。口腔内にはおびただしい数の細菌が存在するからだ。しかも咬傷では、歯によってえぐられた皮膚の奥深くに細菌が押し込まれ、深部に感染が起こりやすい。感染症が全身に広がり、重篤な問題を引き起こすリスクは高いのだ。

 この点もまた、歯が「凶暴」である理由の一つである。殴ったときにできるヒト咬傷を俗に「ファイトバイト(Fight bite injury)」と呼ぶ(バイト〔bite〕は「噛む」の意)。受傷した経緯を話したくない患者が多いため、しばしば状態が悪化してからの受診になり、治療開始が遅れやすい。

咬まれたことで起こる感染症

 医師にとって、決して見逃せない危険な外傷だ。余談だが、イヌやネコ咬傷で生じる感染症でもっとも恐ろしいのが、カプノサイトファーガ感染症である。イヌやネコの口腔内に常在するカプノサイトファーガ属の細菌がヒトに感染すると、ときに全身に感染が広がり、敗血症を引き起こす。

 まれな病気だが、敗血症例での致死率は二五パーセントと高く、早急に抗菌薬(抗生物質)での治療を行わなければ救命できない(3)。動物咬傷の傷そのものは、たいてい小さな穴にすぎず、専門家でないと危険性を認識しづらい。だが、そこから侵入する微生物は、ときに全身性の病気を引き起こし、人命を奪う。

 歯の「凶暴さ」を見くびってはいけないのだ。咬む力の「凶暴さ」歯が凶暴である要因は、歯の「硬さ」だけであるのではない。動物は、凄まじく大きな咬合力、つまり「咬む力」を持っているからだ。一般に咬合力は、一平方インチにかかる重さ(ポンド)で表現する。

カバやゴリラやワニの噛む力

 単位はPSI(pounds per square inch)である。人間の咬合力は、平均で一六一PSI、すなわち一平方インチあたり約七三キログラムである(4)。鉄より硬いものが大人の体重以上の重さで圧迫すると思うと、想像を絶する破壊力である。だが自然界においては、人間の咬合力など微々たるものだ。地球上でもっとも強い咬合力を持つのは、アフリカ大陸に生息するナイルワニである。その咬合力は五〇〇〇PSI、すなわち、一平方インチあたり約二・三トンである。

 ちなみに、カバは一八〇〇PSI、ゴリラは一三〇〇PSIと、同じ哺乳類でも人間の一〇倍近く咬合力が強い。動物は、他の生物を食べることによってしか生きられない。歯の硬さと咬合力は、生き延びるために必要不可欠な能力なのである。

【参考文献】
(1)『歯科衛生学シリーズ 歯・口腔の構造と機能 口腔解剖学・口腔組織発生学・口腔生理学』(一般社団法人全国歯科衛生士教育協議会監修、前田健康ほか著、医歯薬出版、二〇二二)
(2)公益財団法人ライオン歯科衛生研究所「小学生のみなさんへ「歯」のずかん」
https://www.lion-dent-health.or.jp/hamigakids/children/picture_book_01_1/
(3)厚生労働省「カプノサイトファーガ感染症に関するQ&A」
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou18/capnocytophaga.html
(4)BBC Science Focus Magazine「Top 10: Which animals have the strongest bite?」
https://www.sciencefocus.com/nature/top-10-which-animals-have-the-strongest-bite/

(本原稿は、山本健人著すばらしい医学からの抜粋です)

山本健人(やまもと・たけひと)

2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に17万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)ほか多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/keiyou30
公式サイト https://keiyouwhite.com