人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
かつて病院はあまりにも汚かった
私たち現代人にとって「手術」といえば、どんなイメージがあるだろうか? きれいな部屋で、医療スタッフは使い捨てのガウン、マスク、帽子、手袋を身につけ、滅菌された器具を使う。
ここで誰もが当たり前のように思い浮かべるのは、「清潔」という言葉だろう。だが、この「清潔」という概念は実に現代的なものだ。少なくとも十八世紀頃まで、外科医は素手で、マスクや帽子など身につけず、器具は「使い回し」で手術を行っていたからだ。
ヨーロッパの外科医たちはしばしば黒いフロックコートを着て手術をしたが、それは返り血でひどく汚れ、血液は層をなして硬くなった。現代の私たちから見れば、これはいかにも「不潔」である。
手術を行う外科医も、自身が感染症に罹患するリスクに対してあまりに無防備だ。手術室だけではない。かつては病院全体が汚い場所であり、シーツやカーテン、衣類はひどく汚れ、狭いベッドに複数の患者が寝ている光景もよく見られた。
このような不衛生な環境では、感染症の蔓延は必至だったはずだ。
ナイチンゲールと「清潔」
だが、当時は感染症の原因が何たるかは知られておらず、「清潔さ」のメリットは認識されていなかった。このような時代、医療現場に初めて「清潔さ」を導入し、「患者の周囲の環境を衛生的に保つ」という画期的な発案をした人物がいる。
イギリスの看護師フローレンス・ナイチンゲールである。
ナイチンゲールは、患者を病気から救うには衛生的な環境が必要であると説いた。ナイチンゲールの著した看護学書『看護覚え書(Notes On Nursing)』は、二百年近く経った今なお、看護教育に用いられるバイブルとなっている。
この本では「環境整備」の大切さが繰り返し強調される。
「看護とは、新鮮な空気、光、暖かさ、清潔さ、静かさの適切な活用、食べ物の適切な選択と供給、それらすべてを患者の生命力を少しも犠牲にせず行うこと」(著者訳)
今となっては、医療機関で患者が当たり前のように享受できるこの環境も、当時としては革新的であった。
病院の構造を見直す
またナイチンゲールは、患者の看護がスムーズに行えるよう、病院の構造を見直した。施設内に配管を敷設し、各階で温水が容易に使用できるようにしたり、食事の配膳が効率的に行えるようリフトを設置したりするなど、画期的なアイデアを次々と打ち出した。
各病室に呼び鈴を設置し、必要時に患者が看護師を呼べるシステムをつくることで、より効率の良い看護を可能にした。これが世界初の「ナースコール」となった。
一八五四年には、看護団を率いてクリミア戦争の現場に赴き、戦場での兵士の看護を劇的に改善した。ナイチンゲールが「クリミアの天使」と呼ばれるのは、この時からである。
統計学者、そして教育者
ナイチンゲールは、統計学者としても大きな功績を残した。軍隊において、衛生的な環境の維持がいかに重要であり、不衛生がいかに多くの生命を奪うかを政府に説くため、緻密な統計解析を行ったのである。
多種多様な自作のグラフを用いた彼女の資料は、当時としては画期的で、圧倒的な説得力があった。一八五九年、ナイチンゲールはイギリス王立統計学会のメンバーに選ばれるという、女性として初めての快挙を成し遂げた。
また、ナイチンゲールはロンドンに世界初の看護師養成学校を開いたことでも有名だ。長らく、身分の低い召使いとして扱われていた看護師という存在を、適切な訓練を経た正式な専門職として確立したのも彼女の偉大な功績である。
あらゆる人の心に響くマネジメント論
『看護覚え書』の中でナイチンゲールは、後世まで残る有名な理論を書いている。
「自分がそこにいるときにすることを、自分が不在のときにも行われるよう管理する方法を知らないと、看護の結果は台無しになったり完全に逆効果になったりするだろう」(著者訳)
ナイチンゲールは、自分が不在のときも同じクオリティの業務が行われるよう情報を管理し、組織として機能を高めることの大切さを説いた。
現代社会でも、「自分がいないと回らない」が口癖のリーダーがいるかもしれないが、ある特定の人材に依存する組織は脆弱で、非効率である。
そうした組織に対し、リーダーがリスクマネジメントの観点から改善の必要性を感じるならともかく、誇らしく思うとしたら筋違いだ。
ナイチンゲールの言葉は、今なおあらゆる組織人の心に響く重要なマネジメント論といえるだろう。
(本原稿は、山本健人著『すばらしい医学』からの抜粋です)
2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に17万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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