何かトラブルが起きたときや失敗してしまったとき、私たちは「何が原因か」を知りたがる。時には、「なぜ、どうして」と、病んでしまいそうなほど考え込んでしまうこともある。理由を知ったからといって、その後に起きたことは変わらないにも関わらず、だ。このように、私たちが因果関係の推論をすることに一生懸命になる理由を解説している本がある。イェール大学の心理学教授であるアン・ウーキョンの著書『イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法』だ。この本は、人の脳が引き起こす勘違いや認知バイアスなどについて詳しく書かれている。本記事では、本書を元に人がついもやもやと悩んでしまう理由と、その対策について解説する。(構成:神代裕子)

思考の穴Photo: Adobe Stock

失敗やミスの原因を突き止めたい理由とは

 恋人がディナーの約束に遅れたとき、「なぜ遅れたのか」を聞かずにいるのはなかなか難しい。

 電車が遅れたせいなのか、約束をすっかり忘れていたのか。それによっても受ける印象は違う。

 本書によると、因果を推論する重要な目的のひとつが「未来に起こることのコントロール」だという。

誰だって、出来事が起きた原因を特定し、災難を避け、いい結果を繰り返し導きたい。(P.146-147)

 これは、仕事に例えて考えるとわかりやすいだろう。

 ミスが起きた場合、必ず「何が原因でこのようなことになったのか」「担当者はどういった対応をしたのか」といった会話が行われて、原因を追求しようとする。

 もちろん、これは同じことを繰り返さないためだ。原因を究明することで、他の人が同じミスを起こさないようにしているのである。

 これと同様のことを、私たちは日常的にも行っているというわけだ。

人は「コントロールできること」を知りたい

 本書によると、恋人がディナーに遅れた理由を知ることで、私たちはある重要な判断を下しているのだそうだ。

恋人が夕食に遅れたのは「車が故障したせい」だとわかれば、相手がデートを自分ほど楽しみにしていなかったとわかったときに比べて、このまま関係を続けたいと思うだろう。遅刻の原因が、恋人との関係を続けたいかどうかの判断材料のひとつになるというわけだ。(P.147)

 このことから、私たちは「自分にコントロールできるかどうか」を重要かつ役立つ手がかりとして見ていることがわかる。

私たちが結果をある原因に帰そうとするのは、それによって未来に取るべき行動を知りたいからなので、自分でコントロールできないことは基本的に非難しない。(P.147)

 確かに仕事で問題が起こしてしまった際、その理由が予期せぬ事故や悪天候などによるものだったりする場合は、人は自分を責めることはない。

 しかし、自分の認識不足や手配ミスだった場合は「あのときこうしていれば……!」と後悔するに違いない。

「何によってその物事が引き起こされたのか」「自分にコントロールできることか否か」は、私たちにとって大変重要な事柄なのだ。

夜中の「反芻」はろくなことにならない

 失敗したときや不安な気持ちになったとき、人は「なぜ」と原因の追求を始めてしまう。その理由を、本書の著者、アン・ウーキョンは次のように語る。

私たちは問題を解決し、同じ過ちを防ぐ目的で原因を突き止めようとする。反芻すれば、原因が明らかになると思っているのだ。(P.152)

 イヤなことがあった日は、夜中、起きたことを何度も反芻してしまうことはないだろうか。しかし、不安な気持ちで問題を反芻するとろくな精神状態にならない。

 反芻しても正しい答えや有効な解決方法が出てくるとは限らないのに、「なぜあんなことをしてしまったのだろう」とどんどん自分を追い詰めてしまうのだ。

 アンも「残念ながら、反芻は、実際には問題を有効に解決することの妨げになるという研究もある」と話す。

 未来に対する不安や絶望感が強まり、アルコール依存症や摂食障害に陥る恐れもあるのだという。

 そのため、彼女は「原因の究明がひときわ難しく、答えが見つかりそうもない問題に建設的に取り組むには、そこから距離を取るのもひとつの手だ」と提案する。

 なぜなら、問題に入り込むと、感情が激しく消耗し、解決に必要となる視点が維持できなくなり、解決に集中することが難しくなるからだ。

 悩みを反芻している自分に気づいたら、体を動かしたり、映画を観たり、音楽を聴いたりして自分の気をそらすことだ。

考え込んでも「真の原因」には辿り着かない

 私たちは「未来をコントロールしたい」という本能から、問題が起きたときは原因を追究してしまう。

 しかし、アンは「厳密にいうと、原因を問う質問において、答えが見つかるものはひとつもない。どんな結果に対しても、真の原因が明らかになることは絶対にないからだ」と断言する。

サラが祖母から誕生日に100ドルもらい、喜んでいるとしよう。
ところが、サラ本人すら気づいていないが、彼女が喜びを感じているのは、天気がいいからかもしれないし、ついさっきかわいいトカゲを見たからかもしれない。あるいは、誕生日ケーキを食べられるという期待から喜びを感じているとも考えられる。
(P.155)

 たとえば、赤い玉が黄色い玉に向かって転がっていき、ぶつかると黄色い玉が動き出したとする。そういった状況ですら、「そのひとつの出来事が別の出来事を引き起こした保証はない」という。

黄色い玉は赤い玉以外の何らかの力で、あるいは黄色い玉自身の力で動いたのかもしれない。因果関係の知覚は幻想なのだ。(P.156)

原因に執着せず、建設的な行動を

 アンは、原因を問う類いの質問を掘り下げる必要があるのは、真の原因を究明するというより、「未来に取る行動の指針」や、未来に取るべき(または避けるべき)行動の最適解を探すときだけだと語る。

起きたこと、それも起きてほしくないのに起きてしまったことの原因に執着するのをやめたら、離れた視点からその出来事を見つめられるようになる。そうなれば、自責や後悔といった負の感情から解放され、次に厄介な状況に遭遇したときには、解決に向けて建設的に行動できるだろう。(P.156)

 私たちは、危機回避のために原因を追求するという本能があるが、それによって自分が病むほど追い詰められてしまうのは本末転倒ということだ。

 このことを知っておくだけで、きっと私たちは生きやすくなるに違いない。