2016年の発売以降、今でも多くの人に読まれ続けている『ありがとうの奇跡』。本書は、小林正観さんの40年間に及ぶ研究のなかで、いちばん伝えたかったことをまとめた「ベスト・メッセージ集」だ。あらゆる悩みを解決する「ありがとう」の秘訣が1冊にまとめられていて、読者からの大きな反響を呼んでいる。この連載では、本書のエッセンスの一部をお伝えしていく。

ありがとうの奇跡Photo: Adobe Stock

「自分が生まれる前に書いてきたシナリオ通り」に、人生は進んでいくらしい

「どうも私たちは、自分の人生を、生まれるときから死ぬときまで、すべて、こと細かにシナリオに書いてきたらしい」というのが、40年間、研究して得られた、私の「結論」です。

「自分が書いたシナリオ通り」に人生が進んでいくのであれば、じたばたする必要はありません。

 右を選ぼうが左を選ぼうが、どちらを選んでも、選んだものが必ず「自分のシナリオ通り」だからです。

「こんなひどい悲惨な人生のシナリオを、自分で書くわけがない」と私に言ってきた人がいますが、「悲惨なこと」も「恵まれていること」もこの世にはありません。

 たとえば、経済的に裕福な家に生まれた子どもがいたとします。お金持ちで裕福な家の子どもは、おおよそ、二手に分かれます。

 裕福であるがゆえにわがままになって、自己中心的に育っていく人が50%。

「金持ちケンカせず」という言葉の通りに、人に対して寛容で、寛大で、あたたかくて、ニコニコと生きていくという人も50%です。

 一方で、経済的に困窮している家で生まれ育ってきた子どもも、おおよそ、二手に分かれます。

 困窮して育ってきた結果として、性格がねじれてしまい、他人に敵意と憎しみを持って育ってしまう人が50%。反対に、人を大事にして、とてもいい人格を養いながら大人になる人も50%です。

 結論を言うと、裕福であろうが貧しかろうが、必ずどちらも50%になります。どのような生まれ育ちであっても、「生まれる前のシナリオ通り」に育つようです。

 金持ちに生まれてグレた人もたくさんいて、貧乏に生まれても楽しくやっている人もたくさんいます。

 自分がどちらの人格になるかは、「自分で書いたシナリオ通り」で、生まれ育った環境はあまり関係がないようです。

 精神世界の先生といわれる人の中で、「人生のシナリオは、生まれる前から決まっている」という考えを持った方が、私の知人で6人いらっしゃいました。

 この方々は、「大きなことの粗筋(大筋)は、だいたい決まっているが、細かいことは自分の選択によって決められる」と言うので、私は、その方々に、同じ質問をしました。

「大きなことと、小さなことの境界線は、どこにあるのですか?」

 誰からも、「その問い」に対する答えは、返ってきませんでした。

 その境界線の「線引き」は誰にもできないし、わかりません。というより、そもそも「分けられない」のではないでしょうか。

 私の同級生であるSくんは、高校卒業後、大学にも行かず、就職もせず、1年くらいブラブラしていたそうです。

 彼が、晴海の見本市でジュースを売るアルバイトをしていたとき、アメリカの老夫婦がジュースを買いに来ました。

 ジュースを飲み終わって、彼らが「サンキュー」と言って立ち去ろうとしたとき、男性が転んでしまいます。Sくんは、すぐに助け起こして、擦りむいている膝にハンカチを当てて手当てをしたそうです。

 すると、この男性が言いました。

「君のように親切で優しい若者に会ったのは、日本に来てはじめてだ。私たちには子どもがいない。ぜひ、わが家に来て、養子にならないか」

 Sくんは素直に受け、それからパスポートを取り、1ヵ月後には渡米をします。一度しか会ったことのないアメリカ人老夫婦の養子になったそうです。

 Sくんにとって、「転んだ男性に手を貸す」ことは、「たいしたこと」ではなかったのだと思います。きっと、当たり前のことだったのでしょう。

 けれど、たいしたことではないように見える、小さな出来事から、「うちの養子にならないか」という話に発展して、彼はアメリカに渡ったのです。

 その後、Sくんはアメリカで大学院まで通い、企業買収と合併についての専門的な教育を受けました。養父母が亡くなったときには、かなりの遺産を相続しています。

 そして、大きな会社に就職をし、「日本支社長」という立場で帰国しました。その後、Sくんは企業合併のプロフェッショナルとして、日本で活躍をしているそうです。

 Sくんの例を考えてみても、その人にとって、いったい何が「大きいこと」で何が「小さなこと」なのか、わかりません。

 私たちの人生に、「大きいこと」と「小さいこと」の区別はない。同じように、世の中には、「大事な人」と「大事ではない人」の区別もありません。目の前に現れた人が、「すべて大事な人」のようです。