テレビ・ネットで「日本のウォーレン・バフェット」と話題! 1936年(昭和11年)、兵庫県の貧しい農家に4人兄弟の末っ子として生まれた。高校を出してもらってから、ペットショップに就職。そこでお客だった証券会社の役員と株の話をするようになった。そして19歳のとき、4つの銘柄を買ったことが株式投資の始まりだった。あれから68年、バブル崩壊では10億円あった資産が2億円にまで減った。しかし今、資産は18億円まで増え、月6億円を売買しながら、デイトレーダーとして日々相場に挑んでいる。隠しごとなしに日常生活から投資法まで全部書いた話題の書『87歳、現役トレーダー シゲルさんの教え 資産18億円を築いた「投資術」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものをお送りする。

資産18億円! 87歳、現役デイトレーダーの「雀荘経営★秘話」写真:川瀬典子

知人のつぶやきで
雀荘経営を始める

ペットショップの土地を売って、予想外の大金を手に入れてしばらく経って、「そろそろ仕事をしようかな」ということで、手元に残っていた資金で雀荘を開きました。

もともと麻雀は好きだったのですが、ある日、兄の知人が「喫茶店か雀荘でも開きたいなぁ」とつぶやいたのを聞いて、「これや!」と閃(ひらめ)いたわけです。

雀荘を開いたのは、神戸にある国鉄の摂津本山駅のすぐそば。店自体はとっくになくなりましたが、いまも駅のホームからその場所が見えるので、電車に乗るときにはつい見てしまいます。

モーレツ社員の時代

あたりには雀荘が1軒しかなかったので、客の取り合いになることもありませんでした。

当時は「モーレツ社員」なんて言葉があるくらい、長時間働くサラリーマンが多かった時代です。終電を逃したお客さんがたくさん来てくれました。

「職場に近いから家に帰るよりもここで麻雀してたほうがええわ」などと言って徹夜で麻雀をして、そのまま出勤する人も少なくなかったのです。

裕福な学生を顧客ターゲットに

おまけに、近くには甲南大学もあります。甲南大学はその前身が社長や華族の子女を受け入れる旧制7年制高校だったこともあり、裕福な学生が大勢いました。

それに、当時の娯楽の数は、いまとは比べるべくもありません。甲南大学の学生がきっと遊びに来てくれるだろうと考えたのですが、その読みはピタリと当たりました。

いまでも、通ってくれた学生さんの顔と名前を思い出せます。女の子を膝に乗せながら麻雀をしていた金持ちの医学生もいましたね。

昼は大学生、夜はサラリーマン

そういう面では、いまの若い人は昔の学生に比べてずいぶん真面目になったと思います。大っぴらに遊ぶことをしなくなりましたから。

いまでも時々、「彼らはいま何をしているんやろか」と思うこともあります。彼らのほうは、まさか雀荘の店主が、こうして株で取り上げられているとは考えもしないでしょうけどね。

というわけで、雀荘には昼は大学生、夜はサラリーマンがひっきりなしに来てくれたので、予想以上に繁盛しました。

雀荘は24時間営業

最初に経営していた雀荘は1店舗だけでしたが、お客さんが入りきらなくなってしまい、歩いてすぐの場所にもう2店舗開店しました。

店は24時間営業です。3店舗で計47台の雀卓を用意し、従業員は10人以上いました。個人経営の雀荘としては大規模なほうだと思います。

ほかの店で人数がそろわないときは、店主が入るケースも珍しくありませんでしたが、24時間営業ではさすがに体力が持たないので、私自身は接客に徹していました。

牧歌的な時代のこと

当時はコンビニなんかもないので、「お腹が空いた」とこぼすお客さんのために、私や女房が近くの飲食店まで焼きそばやお好み焼きを買いに行ったこともよく覚えています。

ただ、もう時効なので言えますが、「24時間営業」というのは風営法違反に当たります。

とはいえ交番の警察官とも仲良くしていましたし、そういった営業が許される雰囲気がある牧歌的な時代でもありました。いまじゃ、とてもできないでしょうね。

雀荘経営で月収200万円

雀荘を始めるにはそれなりの設備投資が必要なので、当初はそんなに儲けはありませんでしたが、多くの常連さんに愛されて、ピーク時には月200万円ほどの収入があったんですよ。

なかなかいい目を見させてもらいました。

※本稿は、『87歳、現役トレーダー シゲルさんの教え 資産18億円を築いた「投資術」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。