山口百恵の「第1期」は、1973(昭和48)年5月のデビュー曲《としごろ》から12作目のシングル《愛に走って》までであり、一連の楽曲群は千家和也・都倉俊一を中心にして制作されていった。デビュー曲《としごろ》は、桜田淳子を意識したような明るく軽快な、子どもらしい楽曲だった。
しかし、これは山口百恵の重くクールなイメージには合っておらず、宣伝にも力を割かれなかったため、明らかな失敗作となった。そこで、もっとストレートに山口百恵の「個性」を打ち出すべく、「青い性」路線と呼ばれる企画を始動させた。
セカンド・シングル《青い果実》では「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ いけない娘だと 噂されてもいい」と、清潔であどけない少女が性(セックス)に出会う場面が歌い上げられた。この曲がヒットすることで、山口百恵は「性器の備わった清純」(小倉千加子『増補版松田聖子論』朝日新聞出版、50頁)という新しいアイドルのコンセプトを体現していった。《青い果実》以降、《禁じられた遊び》、《春風のいたずら》と続き、「あなたに女の子の一番 大切なものをあげるわ」と歌い始める《ひと夏の経験》で「青い性」路線はピークを迎えた。
「青い性」路線の次なる展開として、酒井政利は、阿木燿子・宇崎竜童のコンビを迎え、成長物語の「第2期」をスタートさせた。その第1弾が、1976(昭和51)年6月の13枚目のシングル《横須賀ストーリー》だった。
この曲で山口百恵は、愛されていないとわかっていながら欲望に身をゆだねる大人の女性を演じた。さらに、《イミテイション・ゴールド》や《プレイバックPart2》では、若い男に対して性的主体となる成熟した女性であり、高級車さえ運転する女性でありながら、しかし同時に男性に従属的でもある女性の姿が歌われていった。
こうした「可愛い悪女」ともいうべき曲調は、1978(昭和53)年8月の《絶体絶命》まで続いた。だが、山口百恵に恋人の影が見え隠れし、実際に三浦友和との「恋人宣言」がなされるに至り、「第2期」の路線は堅持することが難しくなっていった。