池田氏はもともと
創価学会の代表者に過ぎなかった

 ここで読者の中には、「学会とは池田氏自身が仏様や神様であり、池田氏の教えが教義ではないのか」と疑問に思った人もいるかもしれない。

 多少の異論反論はお許しいただくとして、まず学会における信仰の対象はあくまでも法華経、日蓮宗だ。池田氏とは、この日蓮宗を信仰する人たちの集まり(学会)のかつての代表者(第3代会長)であり、会長職を退いた後も変わらず指導者として、この集まりに集うメンバー(学会員)から慕われている存在である。平たく言えば、法華経を信仰する人たちのサークルの代表者といったところだ。

 とはいえ、学会員の中には、実質的な信仰の対象は池田氏と捉えている者もいる。とりわけ1990年代はじめ、それまでずっと信仰の対象としていた日蓮正宗と決別した後は、その傾向が顕著だという。現状では、「池田氏の解釈を含めた法華経」と言えばわかりやすいだろうか。

 学会は1930年に発足した。初代会長は小学校校長を勤めた牧口常三郎氏である。ものの本によると、当時の学会は現代ほど宗教色が強くなく、教育者が集まる勉強会としてスタートしたという。これに宗教的味付けを加味したのが牧口氏の弟子で後の第2代会長、戸田城聖氏だ。

 戦時下、時の政府は全国の事業所、家庭、宗派を問わず宗教施設に至るまで、伊勢神社の神札を祀ることを指示した。これに牧口氏と戸田氏は、創価教育学会(学会の前身)の立場で反対し、不敬罪で逮捕・拘留された。

 この逮捕時、牧口氏、戸田氏以外にも、複数名の創価教育学会関係者も一緒に逮捕・拘留されたが、今日と違い、逮捕された者への人権意識などは成熟していなかった時代である。過酷な取り調べにより、その多くは信仰を捨てて転向し、獄から放たれると同時に創価教育学会から離れていった。最後まで自らの遺志を貫いたのが、牧口氏と戸田氏だったという。

 その牧口氏は獄中で亡くなる。遺志を曲げずに生きて出所した戸田氏は、戦後壊滅状態だった学会を再興する。ビジネスの才に長けた戸田氏は、学習塾の経営や算数の通信教育で成功、そのビジネスでの成功体験を学会の世界に持ち込む。

 まずは「創価教育学会」の名称から「教育」の二文字を削除、今日よく知られる「創価学会」へと変えた。教育者に留まらず、広く大勢の人に親しまれるようにとの思いがあるという。そして大幅な会員獲得――、世に言う折伏大行進だ。1950年当時、約3000世帯の日蓮正宗の中でも小さなグループだった学会を、戸田氏は自らの会長就任挨拶で、「75万世帯に拡大する」との方針を打ち出した。