人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者(@keiyou30)が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
すべての薬は…
創薬の歴史を振り返ると、実は毒から生まれた薬の例は枚挙にいとまがない。
むしろ、すべての薬は毒でもある。人間に都合が良い時は薬、都合が悪い時は毒と勝手に呼び分けているだけだ。
中でも印象的なのは、人間が殺戮を目的につくった猛毒から薬が生まれた例だ。それが、抗がん剤である。
連合国軍の大失態
第二次世界大戦中の一九四三年十二月、イタリアのバーリにある連合国軍の重要な港に、ドイツ軍が大規模な空襲を行った。
この攻撃は「バーリ空襲」と呼ばれ、連合国軍にとっては恐るべき大失態となった。その理由が、マスタードガスの流出だ。
被害を受けたアメリカの輸送船の一つ、ジョン・ハーヴェイ号は、二〇〇〇発ものマスタードガス爆弾を極秘裏に積んでいた。ドイツ軍が化学兵器を使用した際の報復が目的であったが、これが大惨事を招いた。
ドイツ軍の爆撃によって、この七〇トンにも及ぶ猛毒が海水に流出。一部は蒸発して毒ガスとなり、港町に拡散したのである。
マスタードガスは、これまでもっとも多くの人命を奪ってきた毒ガスの一つだ。マスタードやニンニクに似た独特の臭いが名前の由来である。
事故当時、大勢の負傷者が医療機関に搬送されたが、マスタードガスの存在は秘匿されていたため、誰もが中毒に気づけなかった。結果としてマスタードガスの被害を受けた八〇人以上の兵士が死亡し、数ヵ月のうちに民間人も含め一〇〇〇人以上が亡くなった(1)。
マスタードガスは「びらん剤」に分類され、皮膚のびらん(ただれ)を引き起こす化学兵器だ。
だが、この大規模な被害によって明らかになったのは、皮膚症状にとどまらないマスタードガスの真の恐ろしさだった。
マスタードガスの被害を受けた患者の血液には、奇妙な変化が起きていた。白血球の数が激減していたのだ。
恐ろしいことに、この猛毒は骨髄を狙い撃ちし、人体の造血機能を破壊する作用があった。
白血球や赤血球、血小板などの血球は骨髄でつくられる。この機能が失われれば、血液中に新たな血球を供給できない。
特に白血球の寿命は、種類によって異なるもののおおむね数時間から数日と短い(赤血球の寿命は約百二十日、血小板は約十日)。
血球の工場が攻撃されれば、あっという間に血液中の白血球は消失し、免疫機能は壊滅、重篤な感染症で死の危機に瀕することになる。
イェール大学の研究者の発見
だが、イェール大学の薬理学者アルフレッド・ギルマンとルイス・サンフォード・グッドマンは、この特徴に関心を持った。応用すれば、がん治療に使えるのではないかと考えたからだ。
白血病やリンパ腫などの血液のがんは、血球ががん化して無秩序に増殖する病気だ。血球のみを選択的に攻撃することができるなら、がん化した血球を破壊できるかもしれない。
マスタードガスからつくられた化合物、ナイトロジェンマスタードは、一九四〇年代以後、リンパ腫の治療に用いられ、予想通り劇的な効果を発揮した。
「抗がん剤」そのものが存在すらしなかった当時、これはまさに奇跡というほかなかった。
のちに、ナイトロジェンマスタードを改良したエンドキサン(シクロフォスファミド)やアルケラン(メルファラン)などさまざまな薬が抗がん剤として開発され、現在に至っている。
皮肉にも、戦時中に使用された毒ガスが抗がん剤の歴史の第一歩だったのだ。
【参考文献】
(1)『がん 4000年の歴史(上・下)』(シッダールタ・ムカジー著、ハヤカワ文庫、二〇一六)
(本原稿は、山本健人著『すばらしい医学』を抜粋、編集したものです)
2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に18万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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