かつてトヨタと共に20世紀の日本の自動車産業をリードしてきたのが日産だった。

 むしろ、トヨタが愛知・豊田市を本拠としていたのに対し、首都東京・銀座(当時)に本社を置く日産が日本車を代表したリーディング企業でもあったのだ。「販売のトヨタ」に対し「技術の日産」が、野球で王・長嶋のONに比較されたTNのライバル関係のキャッチフレーズだった。

 しかし、日産の凋落によって、次第に日産とトヨタの両大手のライバル関係は格差がつき、90年代後半にその差ははっきりとした。それは日産が抱えていた労働組合問題が経営の混乱を招いた結果だった。

 90年代末には、瀕死(ひんし)の日産は外資のルノーとの資本提携に活路を求めた。そして、ルノー・日産の日仏国際提携は、2016年に日産が三菱自を傘下に収めたことでルノー・日産・三菱自の3社連合に変化した。

 だが、この3社連合は、ルノーの傘下に日産(ルノーが日産に43.4%出資)、日産の傘下に三菱自(日産が三菱自に34%出資)という親・子・孫の複雑な資本関係であった。さらにルノーは、かつてのルノー公団として現在も仏政府が筆頭株主という国策が絡んだ企業であり、連合の動向は常に微妙な状況にあった。

 日産はルノーと対等に議決権を行使できるようになったことで、1999年以来の親子関係がついに変わる。今後は経営の自由度が増し、積極投資や日仏連合での主導権、リーダーシップへの変化が期待されるところだ。

 そこで、内田誠・日産社長体制の評価だが、日産は赤字から脱しこの24年3月期に中間配当としては4年ぶりの配当を行ったものの、1株あたり5円とごくわずかであり依然多くの経営課題を抱えている。

 カルロス・ゴーン長期政権後期のグローバル拡大戦略のゆがみによる業績悪化と経営陣の混乱の中で、19年12月に抜てきの形でスタートしたのが内田誠体制だ。