というのも私たちは目で見て理解できるものでないとなかなか信じることができないため、仏さまはあえて仏像のようなわかりやすい姿を取っておられますが、本来は「限りない光」であり、私たちが救われる真理(働き)そのものであるともいわれます。ちなみにこのように真実を伝えるためにあえて仮の姿を取ることを「方便」といいます。
このような、人智を超えたものによる救済を説いた考え方は「大乗仏教」といわれ、お釈迦さまの時代よりも後の時代に成立しました。
その中でも阿弥陀仏による救済は、特に平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて爆発的に広まりました。これは当時の時代背景の影響が考えられます。当時の日本は各地で戦が繰り返され、大規模な飢饉や大地震が起こっていました。
鴨長明の『方丈記』によれば都は死体で溢れ返る酷い有様でした。市井の人々はその日の命をつなぐことに必死で、徳を積むどころか生きるために止むを得ず許されざる行為に手を染めねばならない現実もあったでしょう。
現世で悪を成した人間の逝きつく先はどこか、地獄です。今生きているこの世も地獄、生まれ変わった来世もまた地獄。その中でただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば極楽浄土に往生することができる、その考えがどれほど人々に希望を与えたでしょうか。単に死後の幸せを約束するだけではなく、私が救われている存在であるという「事実」が今を生きる力の源になっていったのです。
阿弥陀仏にすがれば救われると
唱える高僧すら不安を抱えていた
阿弥陀仏の救いによれば、私たちはどんな苦悩を抱えていたとしても本来的には救われる(救われている)存在であるのです。しかし、ここに最大の問題があります。
救済が「事実」だといわれても、我々はそれを信じられないのです。そして、これは現代人特有の悩みかと思いきや、昔のお坊さんも同じ悩みを抱えていたようです。その一端を読み取れるのが、『歎異抄』の中の唯円と師である親鸞のやり取りです。