なぜ「学校はつまらない」のか

 つまり宿命的に学校は、学びをつまらなくする装置としての役割を担っている。さらにその強制力を各教科のすみずみにまで行き渡らせるのがテストだ。どれだけ学んだのかを確かめるのが本来のテストの意味だが、テストで良い点を取ることが目的であるかのような本末転倒が、日本中の学校で起きている。

 テストの点を取るために勉強しろと言われてやる気になる人なんていない。もしいるとしたら、テストをゲームか何かのように捉えて、学び本来の喜びを得るというよりは目標を達成すること自体を楽しめる人だろう。

 これといった学問的な興味はなくても、競争心が強く、受験科目についてまんべんなく努力ができて、苦手分野が少なく、効率的に得点するすべにたけている生徒のほうが優秀な生徒だと認定される。

 人は一人一人得意も苦手も違うし、もともと助け合うことを生存戦略とする生き物なのだから、何でも一人でできるようになる必要なんてない。それなのにいまの学校教育は、子ども一人一人に万能化を求め、その度合いによって人間を序列化する。

学業成績をめぐる競争は出来レース

 行動遺伝学の知見によれば、学業成績の個人差の要因はざっくり、遺伝が50%、家庭環境(親の社会経済的地位など)が30%、その他(先生との出会いのような偶然や本人が変えられる要因)が20%。本人にはどうにもできない部分が8割も占めるのが現実だ。まるで出来レースである。

 それなのに世の中には、偏差値によって学校の価値だけでなくそこに通う生徒たちの素行までを決めつける風潮すら存在する。

「偏差値が高い子だからこそ自律できる」という言説は、「偏差値の低い子は自律ができない」と言い換えられる。この状況では、偏差値を人格の代理指標として、偏差値が低い、すなわち人格的質で劣る人の自由は制限されて当然であるという考えが、多くの人の無意識に刷り込まれてしまう。

 この社会では、12歳や15歳時点でのペーパーテストの点数で、「君は自律ができる人」「君は自律ができない人」というレッテルを貼っている可能性がある。それによって青春時代に得られる自由や自己効力感にまで格差が生じるのであれば、その格差が子どもたちの人生に与える影響はおそらく、学歴格差がもたらす影響よりも甚大だ。