大事なことは全部学校が教える? 日本は「学校依存社会」
学校ができる以前は、子どもたちは日常生活の中で、地域社会の中で、大人たちの仕事場で、はたまた裏山の秘密基地で、多くを学んで大人になっていった。近代になってできたばかりの学校は、日常生活や地域社会の中では教えられないことを学ぶだけのところだった。
しかし学校での教育が非常に効率的だったため、子どもにとって大切なことは何でも学校で教えるようになり、学校の機能がどんどん肥大化していった。逆に日常生活や地域社会の教育力が落ちた。
学校依存社会である。
マナーや道徳やコミュニケーションの取り方から、キャリア教育、金融教育、環境教育、主権者教育、性教育など、あらゆることを学校に押しつける社会。その末路が、教員の長時間労働であり、その結果としての教員不足であり、子どもにとっては学校での長すぎる拘束時間と、その結果としての放課後の消滅であり、ボーッとする時間の消滅だ。
今、学校に不満を持つ子どもたちは、くれぐれも、狭い教室の中だけが世界だと思わないでほしい。教室の中が息苦しい、生き苦しいと感じたら、中高生だってどんどん外に目を向けてほしい。それだけで心持ちが変わるはずだ。
だからといって、理想の学校なんていらない
おおたとしまさ 著
子どもたちが苦しむことのないように、もっと楽しく学べるように、もっと学校を良くしたい、理想の学校を作りたい。教員など学校関係者が理想の教育を追い求めるのは当然だ。しかしそこにも大きな落とし穴がある。
ただでさえ学校の負担が大きくなっている社会において、理想や完璧を求められたらますます学校は衰弱してしまう。仮に“理想の学校”なんてものができてしまったら、そこに入った子どもたちはみんな“理想の人間”に育たなければいけない。それは相当に居心地が悪い。「理想の学校のパラドクス」だ。
現状の学校に対して、理不尽に思ったり、ままならなさを感じたり、イヤなところがあっても、学校のネガティブな部分に自分自身が染まらなければいい。そのための知恵を、誠意ある大人たちが子どもたちに伝えることなら、いますぐにでもできる。そんな思いを拙著『学校に染まるな!バカとルールの無限増殖』には込めた。
昔の学校には1人か2人、必ずいたはずだ。新入生に対して不敵な笑みを浮かべながら、「君たちはこれからこの教室で学ぶわけだけれども、私たち教員の言うことを疑ってかからなきゃいけないんだぞ」と言う知恵のある先生が。あれを思い出してほしい。子どもを学校に通わせる大前提として、大人がまず教えなければいけない、一丁目一番地の教訓なのである。