職員が涙ながらに語った
「破綻寸前のケア」の実態
そこで七尾市での診療活動を経て珠洲市に移動し、1月7日のお昼前には介護老人保健施設「美笑苑(びしょうえん)」を訪ねた。
美笑苑に近づくにつれ、道の変形はさらに強くなり、家の壊れ方も激しくなった。既に発災から6日がたとうとしていたが、高齢者施設は大丈夫なのか。焦燥感を抱いて、我々は美笑苑に達した。玄関に入ると、施設職員が出迎えてくれた。それから2時間。私たちは職員の口から涙ながらに語られる、壮絶な話に圧倒された。
職員によると、この施設にはもともと100人の要介護者がいた。そして地震の後、隣接するグループホーム(認知症を持つ高齢者が対象)から20人が新たに避難してきた。要介護者は計120人に増えた。
一方で、介護・看護職員は総勢90人いるものの、全員がグループホームに常駐していたり、付近に住んでいたりするわけではない。被災後すぐ現地に駆けつけたのは30人のみ。その職員たちのほとんどは、家を失っていた。
それ以降は従来の1.2倍に増えた要介護者を、従来の3分の1の職員で世話した。部屋が破損した影響で、32人用の空間に50人超を収容するなど、施設内はぎゅうぎゅう詰めとなった。
非常時に備えて3日分の水と食料は備蓄していたが、それ以降の分はなかった。水が心もとなくなった1月4日の夜8時に、ようやくペットボトルの水が届いた。しかも震災が起こった1日から7日の午前中まで、電気は戻らなかった。夜間は暗闇だったのだ。
認知症を患った入所者は暗闇の中、繰り返し襲う余震に怯え、寒さに震えて悲鳴を上げた。その悲鳴がまた周りの入所者の不安を呼び覚まし、悲鳴の連鎖が起こる。入所者を安心させようと、職員は必死になって体をさすり、寄り添い、声を掛けた。四六時中、食事介助や排泄ケアも行った。
もとより介護は楽な仕事ではない。奥能登の冬は厳しい。その上で、被災によって過酷な環境下に追い込まれた。暖房もつかず、お湯も出ない。
それでも、職員の中心メンバーは不眠不休で入所者を支えた。精神的にも肉体的にも、職員が限界に達しているのは明らかだった。だが彼・彼女らが倒れれば、入所者の世話をする人はいなくなる。
「私たちは日本から忘れられてしまった存在なのではないか」。支援の手が届くまで、職員は悲壮な思いで介護を続けてきたという。