身を捨てる覚悟があったのは
野田元総理だけ?
最後に、私が現役時代、尊敬していたある実業家の意見をご紹介します(引退後は地方で障害者施設の支援をしておられます)。
「なぜ、日本人は小粒になったのか。やはり、戦争を知らないし、本当の貧しさも知らない人が多いからでは、と思います(私も同じです)。戦争を知る世代がリーダーだった時代は、一本筋が通っている人が多かったように思います。死線を越えてきた世代はいつも覚悟を問われていたが、平和な時代は自分中心で、社会や人のことを考えなくても済むからです。
私はある国家的大事業に身を置いて、初めて覚悟を問われました。そのとき、身を捨てることを学び、迷いが晴れたことを思い出します。国を背負う総理として、私の物差しは『身を捨てる』覚悟で臨んだかどうかで、最近20年で該当する人は野田さんだけではないかと思います」
私自身は野田佳彦元総理には会ったことがありません。しかし、身を捨てて消費税という国民に嫌われる政策を党の内外からの批判にさられながら押し切った行為に、政治家として畏敬の念を抱いたことは事実です。
「政治家を批判してはいけない」
若者の空気に覚える違和感
さて、もう一つ重要なことがこのアンケートで発覚しました。子どもの前で政治家の悪口を言っていると「そんなこと言うべきじゃない」と子どもから注意されたという人たちが、相当数いたことです。
実は、私も大学で授業をしていて同じことを経験しました。民主主義下の政治家とは、自ら声を上げて、国民から預かった税金の使い道を決める仕事に就いた人です。納税者からの批判に声を傾けるのは当たり前の仕事です。
いつから、若者が政治家を殿様のように尊敬し、「批判もしてはいけない」という空気が漂う時代になったのか。寒気がしました。明治維新以来、営々として築かれてきた近代日本は、江戸時代にどんどん逆戻りしているのではないかと思うことが多々あります。
実際、数多くの世襲議員は三代目の時代に入りました。企業経営であれば、三代目で潰れる会社が多いことも事実。とはいえ、私も含め、日本国民が選んだ政治家がこれまで述べたようなテイタラクなのです。
作家の三島由紀夫は衝撃的な自決をとげる4カ月前、日本の未来を預言する一文を産経新聞に寄稿しました(昭和45年7月25日)。
「日本はなくなり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな抜け目がない経済的大国が残るのであろう」
それどころか、経済的大国でさえなくなりそうな日が近づいてきました。この国の未来を担う若者が閉塞感に満ちているとき、我々はそれを看過したまま、のうのうと暮らしていいのかと自問する日々です。
(元週刊文春・月刊文芸春編集長 木俣正剛)