スターであればあるほど、妻に求められるハードルは高くなる。大スターの結婚について、国民全員がお茶の間コメンテーターになってしまう国民性であるからこそ、結婚相手を伏せたくなる気持ちはわかる。

 また、日本では公私を分ける慣習が強く、例えば「夫の仕事現場に頻繁に姿を見せる妻はでしゃばり」と言われて好まれなかったりもする。SNSの何気ない投稿が「匂わせ(交際をさりげなくアピールすること)」と言われ、言語道断であると敵視されてしまうこともある。

 大谷のケースが、妻をお披露目することのリスクを再三考えたゆえの判断だと思うと、何に先んじてもまず炎上のリスクを考えなければならない日本の閉塞感を感じてしまう。有名人の結婚にああだ、こうだと難癖をつけたくなってしまうのは、要するに暇かやっかみからなのだが、その感情を認めたくない人が理由を捻り出すことがあるから厄介だ。「人の幸せも自分の幸せ」と思うことができれば人類は平和なのだが。

大っぴらには語らないという
メディアの不思議な不文律

 結婚報道の加熱による騒動といえば、2023年の羽生結弦の結婚と離婚を思い浮かべる人が多いだろう。

 このようなことはあってはならないという教訓からか、大谷の結婚相手は半ば判明していながらも、多くの人が大っぴらには語らないという不思議な不文律が保たれている。何らかのルールがあるわけではなく、「世界に誇る大スターの大谷を傷つけてはならない」という世の中の空気によって、奇妙な報道規制が保たれているのだ。日本らしいといえば日本らしい。

 ところで先日、有吉弘行に第一子が誕生したことが報告された。誕生は報告されたものの、生年月日や性別は伏せられており、このスタイルの発表は近年珍しくない。「親が有名人であっても子どもは普通の環境で、なるべく平穏に育てたい」という意図もあるだろうし、「プライベートをそこまで公にしなくていい」という考えもあるだろう。

 大人である配偶者を公表するかどうかとはまた別の問題であり、こういった発表に異を唱える人は少なさそうだが、これも時代の変化を感じる発表の仕方である。

 結婚や出産の発表の仕方が一律的だった一昔前に比べ、現代では発表も多様化している。また、先日事実婚と妊娠を発表した俳優同士の報道があったように、そのスタイルも変化していくのだろう。

 どのようなスタイルを選んだところで、人は人、自分は自分と割り切っていれば、いらぬ批評や誹謗中傷などの詮索も減るはずだ。何か言いたくなったときは、ネットに書き込む前にまず身近な人と話してみてはどうだろうか。ネット社会が、少しだけ平和になるかもしれない。