豊島とのタイトル戦は竜王戦が3回目となった。「相手は豊島竜王。番勝負で対戦できるのはうれしい」。既に王位と棋聖を併せ持つ二冠となっていた藤井にとって、竜王挑戦は「ドリーム」ではなかったかもしれない。

 本人の言葉からにじんだのは、トップ棋士との濃密な勝負を望む一途な姿勢だった。

藤井聡太が三冠誕生の夜に語った
今まで一度も口にしなかった言葉

 何も語らない。彼の表情の奥に変化を探しても、いつも通りの藤井がいる。普通の人ならば、少しは焦りの色くらい浮かべるはずなのに。

 2021年9月13日、豊島に挑戦した叡王戦五番勝負第5局。2勝1敗で奪取に王手を掛けた前局に敗れ、5度目のタイトル戦で初めての最終局を迎えた19歳は、初のタイトル戦敗退の窮地にも陥っていた。

 現場の報道陣は、陰りを知らない宝石に土が付く可能性に緊張感を募らせていたが、対局室の藤井は涼しげな顔を崩さなかった。

 激闘の終盤。藤井は持ち時間が30分を切った後、視野の広さと発想の柔らかさを見せる。守備の要だった7七の金を攻めに転化させて4三への長旅に出すと、下段の遊び駒から寄せる圧巻の先手9七桂で決着をつけた。

 棋聖、王位に続く叡王の獲得で史上10人目の三冠に。史上最年少の19歳1カ月での達成となり、羽生が1993年に樹立した22歳3カ月の記録を28年ぶりに更新した。

書影『藤井聡太のいる時代 最年少名人への道』『藤井聡太のいる時代 最年少名人への道』(朝日新聞出版)
朝日新聞将棋取材班 著

 感想戦終了後の会見。ふと、八冠制覇という究極の頂について尋ねてみようと思った。藤井が記録や結果などに拘泥しないことはよく分かっているが、不敗の三冠が誕生した夜なら、やはり聞いてみたくなる。

 藤井は「全冠制覇は現時点で意識することではないですけど」と言った後、今まで一度も口にしなかった言葉を発した。

「ひとつの理想のかたちではあるので、今以上に実力が必要になります。高めた上で近づくのは理想だと思っています」

 夢でも目標でもなく「ひとつの理想のかたち」。端正に響くフレーズだった。彼らしく控えめだけれど、心のどこかには誰も見たことのない風景を描いているのだと思った。

 もう「誰に勝つか」を語る時は終わった。気がつくと到来していたのは「誰が藤井聡太に勝つか」を考える時代だった。