「お前らが、なんで泣きよっとか?お前らが頑張ってくれたから、おれら、ここまで来られたんたい」

「3年生のおれたちが悪い。お前たちはよう頑張ってくれた」

「(優勝した秀岳館ベンチを指さして)見てみ。あんなに喜んどるぞ。はしゃいどるぞ。来年は、お前たちがああなってくれ。ありがとう。泣くな」

 閉会式のあと、学校のグラウンドに戻ってミーティングをした。終わっても、ムネだけ帰らんかった。そして、ウォンウォン泣き出した。

「ぼくは先生ともう1回、甲子園に行きたかったです」と言いながら。

「ムネ、ありがとうな。お前は、今からだぞ。今からがスタートだぞ。次のことを考えろ」

臥薪嘗胆して清宮、安田を超え
史上最年少の22歳で三冠王に

 清宮君のような華やかな高校時代ではなかった。高校日本代表チームにも選ばれなかった。だから、「トップチームで日の丸をつける選手になれ。薪の上で寝てでも頑張るんだ」と話し、「臥薪嘗胆」という言葉を教えた。「意味が分からなければ、辞書を引きなさい」と。

 実際にプロ入りすれば、そこからは横一線。今までの成績は関係なくなる。高校野球物語は18歳で終わり。これからは清宮君や安田尚憲君(大阪・履正社→ロッテ)がライバルじゃない。1歳上、もっと言えば10歳上、15歳上のおっさんたちと勝負しなきゃいけない。

 私がそんな話をしたからか、ドラフトで1位指名を受けた後、「自分の方がまだ下だから、(清宮君や安田君を)ライバルとは思っていません。気にしていません」と発言していた。

 もちろん、練習はずっと続けた。「朝練もやろうな。プロでも最初は2軍で、デーゲームだからな」と私も話した。

 ムネは教えたり、叱ったりしやすい生徒なんだ。向上心が高かったからね。三塁手として活躍できているのも、素晴らしい指導者のおかげだよね。器用な子だけど、プロ入りから、わずか1年であそこまで仕上げたのは、さすがプロのコーチだと感心しましたよ。

 たくさんの人にかわいがられ、色んなことをどんどん吸収できているんじゃないかな。そういう人間に育ってくれたことが、何よりもうれしいね。

村上宗隆(むらかみ・むねたか)2000年2月、熊本市出身。九州学院高1年の15年夏に4番一塁手として甲子園出場。17年秋のプロ野球ドラフト会議でヤクルトから1位指名を受けて入団。2年目の19年に三塁手の定位置を獲得し、36本塁打で新人王。21年は本塁打王(39本)を獲得する活躍でチームの日本一に貢献し、MVPを受賞した。東京五輪にも参加し、金メダルを獲得。22年は日本人登録選手のシーズン最多本塁打記録を更新し(56本)、史上最年少の22歳で三冠王を獲得。夏場にはプロ野球史上初の5打席連続本塁打を記録した。23年3月のWBCでは準決勝でサヨナラ二塁打、決勝で本塁打を放って日本の世界一に貢献した。
坂井宏安(さかい・ひろやす) 1957年、熊本県出身。九州学院高─日体大で外野手。銚子商高(千葉)で4年間コーチをした後、84年に母校・九州学院高の体育教諭となる。野球部監督は3年で退任し、空手部などの顧問を務め、4競技で全国大会に出場した。95年に監督復帰後、春夏5回ずつ甲子園に出場。2010年夏はベスト8。吉本亮(ソフトバンクコーチ)、高山久(西武コーチ)、村上宗隆(ヤクルト)らを育てる。20年夏を最後に監督を勇退。23年4月から彦根総合高(滋賀)の学校長兼野球部総監督。